第8話 亡くなったのは、支度のほうでした
蔵は北の壁際にありました。
半分が地面に埋まっていて、扉は鉄。鍵はバルトが持っておりました。開けるとき、蝶番が鳴りました。三年ぶりだそうです。
中は暗く、空気が動きません。動かない空気は、匂いを溜めます。入った瞬間に分かりました。あの匂いです。納戸で嗅いだものより、ずっと濃うございました。
旦那様が灯りを掲げました。
櫃が三つ、並べて置いてありました。
◇
どれも樫です。うちのものより新しく、金具も凝っておりました。左のものは蓋に彫りが入っております。真ん中のは角に真鍮を打ってある。右のは飾りが少ない代わりに、板が厚うございました。
「マルグリット。イルゼ。アンナ」
旦那様が、左から順に名を言われました。
「三人とも、生きている」
わたしは灯りのほうを見ました。
「――生きて、いらっしゃるのですか」
「実家に戻っている。マルグリットは去年、子が生まれたと聞いた」
風の音が、扉の隙間から入っておりました。
◇
「開けてくれ」
言われて、わたしは左の櫃の前にしゃがみました。
金具は錆びておりました。錆びた金具は、無理に引くと板ごと持っていきます。目打ちの背で錆を落として、少しずつ動かしました。
蓋が上がりました。
――ああ。
声は出しませんでした。
いちばん上に婚礼衣装が畳んでありました。絹です。上等な絹でした。それが、灰色に変わっておりました。全体が均一に灰色なのではありません。折り目に沿って黒い線が走り、線の周りが白く粉を吹いて、そのあいだの地の色だけが元のままなのです。
指をかけて持ち上げようとしました。
持ち上がりませんでした。折り目のところで、繊維が切れております。持ち上げると、そこから分かれる。布ではなく、布の形をした灰のようなものでした。
わたしは、その下も見ました。
肌着が五枚。うち二枚は、まだ形を保っております。絹ではなく麻だったからです。麻は絹より丈夫で、腐るのに時間がかかります。ただ、二枚とも脇の下が抜けておりました。脇は縫い代が三枚重なる場所で、重なったところは乾きにくいのです。
卓布は無事でした。いちばん上でも下でもない、真ん中に入っていたからでしょう。
つまり、全部が駄目になったのではありません。置いた場所と、布の種類と、重なりの厚みで、駄目になる順番が決まっております。順番があるということは、防ぎようがあったということでございます。
二つ目も、三つ目も、同じでした。
真ん中の櫃は、いちばんひどうございました。褥布が下のほうに詰めてあって、その重みで空気が抜けなくなったのでしょう。底に近いほうは、布と布がくっついて一つの塊になっておりました。
右の櫃だけ、少しましでした。板が厚かったからです。厚い板は外の湿りを通しにくい。それでも中身の半分は駄目になっておりました。板を厚くするというのは、遅らせるだけの手でございます。
◇
「これが、呪いだ」
旦那様がそう言われました。
わたしは膝をついたまま、聞いておりました。
「この土地は、冬に湿る。石が水を出す。外は乾いていても、蔵の中は違う。──三人とも、王都から櫃を持ってきた」
絹と、麻。どちらも南の布でございます。
この国では、嫁いだ娘の支度は三代もつものとされております。娘の代、子の代、孫の代。だから婚礼のあと、櫃はしまわれます。しまって、節目に出して使う。三代もつという前提で、しまい方の作法ができております。
その作法は、乾いた土地のものでした。
「一年めの春に、マルグリットの家から人が来た。櫃を検めて、帰って、それきりだ」
「……検めて」
「支度が駄目になれば、嫁いだ先の扱いが悪いことになる。あるいは、娘が手入れを怠ったことに」
旦那様は灯りを持ち替えられました。
「どちらにしても、家の恥だ。マルグリットは呼び戻された。イルゼも、アンナも」
「――お引き止めには」
「した」
それだけ言って、黙られました。
◇
わたしは三つの櫃を、順にもう一度見ました。
中身の詰め方が、三つとも同じでした。重いものが下、軽いものが上。油紙なし、灰袋なし。悪い詰め方ではありません。王都の作法どおりです。王都なら、これで三代もちます。
誰も間違えておりません。
誰も間違えていないのに、三度とも同じことが起きて、三人とも戻された。そして「呪い」という名前がつきました。名前がつくと、人は原因を探すのをやめます。
――それで、十年。
「なぜ、どなたにも仰らなかったのですか」
旦那様は答えられませんでした。
しばらくして、こう言われました。
「言えば、布のせいだと言うことになる。布を持たせたのは、あちらの家だ」
実家を責める形になる。それを言えば、戻された娘の立場がなくなります。
この方は十年、呪われた男でいらしたのです。そのほうが片付くからでございます。
◇
わたしは灯りを借りて、蔵の壁を見ました。
石積みで、目地は漆喰。床から二尺ほどの高さに、白い線が横に走っております。水がそこまで上がって、そこで止まって、乾いた跡です。毎年、同じ高さまで上がるのでしょう。
櫃は三つとも、床へ直に置いてありました。
床に直に置くと、底板が地面の冷たさをもらいます。冷たいものの表面には、空気の中の水がつきます。冬の窓と同じでございます。櫃の底の内側は、外から見えないまま、ずっと濡れていたはずです。
台に載せて、床から一尺離すだけで、まるきり違ったと思います。
それだけのことで、と言いたくなりますが、それだけのことを知らなければ、知りようがありません。この土地に縫い手がいれば、誰かが言ったでしょう。縫い手はおりませんでした。
◇
帰り際、わたしは真ん中の櫃の底に手を入れました。
塊になった褥布を、少しだけ動かしてみたのです。動かないと思っておりました。動かなければ、それはもう布ではなく、捨てるほかありません。
いちばん下の一枚が、剥がれました。
黒くなっておりましたが、まだ布の形をしております。持ち上げて、灯りへ寄せました。脇の縫い代が残っております。
わたしは指の腹を、そこへ当てました。
糸の盛り上がりが、ありました。
三度返して、小さな結び目をひとつ。
――母の形。
わたしの手が止まったのを、旦那様が見ておられました。
「どうした」
わたしは、すぐには答えられませんでした。
この櫃はイルゼ様のものです。イルゼ様は王都のどこかの家の娘で、わたしとは縁もゆかりもありません。その方の支度の、いちばん底の一枚に、母から教わったのと同じ形が入っております。
母はヴァルトハイムの縫い手でした。よその家の支度を縫うことはありません。
では、これを縫ったのは、誰でしょう。
「……いえ」
わたしはその一枚を畳んで、腕に抱えました。持って出るとは言いませんでしたが、旦那様は何も仰いませんでした。
外へ出ると、空気が違いました。蔵の中より、外のほうが乾いております。冬の外気は水を持てないのです。持てないから、中へ入って暖まった瞬間に、持てるようになる。屋敷の中がいつも湿っているのは、そういう理屈でございます。
バルトが鍵をかけながら、こちらを見ました。
「奥様。お顔の色が」
「蔵は冷えますので」
嘘ではありませんでしたが、本当でもありませんでした。
腕の中の一枚は、黒くて、重くて、かすかに匂います。イルゼ様という方が、王都から持ってこられたものです。その方の家の縫い手が縫って、この蔵で十年近く放って置かれた。
誰が縫ったのか、この布に聞くことはできません。
できることは、裏を見ることだけでございます。
蔵の扉が閉まって、鉄の音が壁に響きました。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
嫁いだ娘の支度は三代もつ、というのは乾いた土地の話でした。しまい方の作法も、乾いた土地のものでした。誰も間違えていないのに三度とも同じことが起きると、人はそれに名前をつけて、原因を探すのをやめます。
次話、王都から二通目の手紙が届きます。差出人は継母ではありません。
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