第6話 五度目の縁談にも、支度が要るそうです
紙は上等でした。
王都の紙屋のもので、厚みがあって、透かすと繊維の向きが揃っております。ヴァルトハイム家がこの紙を使うのは、外へ出す手紙だけでございます。家の中の用には、もっと薄いものを使います。
手紙は二枚ありました。
一枚目はご挨拶でした。道中は無事だったか、先方はどうか、体を冷やしていないか。三行ずつ、きちんと書いてございます。ヘドヴィヒ様は字がお上手です。筆の運びに迷いがなく、行の間隔が最後まで狂いません。
二枚目に用がありました。
クラーラに五度目のお話が来た、とありました。今度は王都の伯爵家で、家格も申し分なく、先方も乗り気だと。ただ、支度が要る。四度目までに出した櫃はどれも先方へ渡ってしまっているので、新しく一式こしらえなければならない。
――ついては、あなたが縫って送ってちょうだい。
その一行のあとに、こう続いておりました。
――あちらは静かなところと聞いていますから、手も空いているでしょう。
わたしは手紙を膝に置いて、しばらく窓の高いところを見ておりました。
◇
返事を書こうとして、机に紙を出しました。
書く言葉は決まっているつもりでした。縫えません、と書けばよいのです。あるいは、こちらの布の手当てで手が離せません、でも構いません。理由はいくらでもございます。
けれど筆が止まりました。
止まったのは、理由を書こうとしたからでございます。理由を書くと、それは断りではなく相談になるのです。相談になれば、ヘドヴィヒ様は次の手紙で理由を潰しにかかります。手が空いていないのなら人を雇いなさい、布がないなら送ります、と。そうやって、この十年、話は必ず一往復で決まってまいりました。
わたしはいつも、二通目で「わかりました」と書いてきたのです。
紙を戻しました。
断りの手紙を書かないというのは、断らないということではありません。ただ、往復を始めないというだけでございます。
◇
その代わりに、帳面の新しい頁へ数を書きました。
一度目の縁談の櫃。婚礼衣装が一、肌着が六、褥布が四組、卓布が二、手巾が十二。産着が三。しめて二十八点。縫いにかかった日数は、覚えている限りで七十日ほど。
二度目。二十八点。八十日。三度目のときは先方の家格が高うございましたので、卓布を四枚に増やしました。三十点。九十日。四度目は褥布を絹に替えるという話が出て、絹の扱いが分からず一度ほどいて縫い直しました。百十日。
足すと、三百五十日でございます。
一年ぶん、手を動かしていたことになります。十年のうちの一年ではありません。縫っていた日は朝から晩まで縫っておりましたので、実際にはもっと長い。
この数を、これまで一度も数えたことがありませんでした。
数えなかったのは、数えると腹が立つからだと思っておりましたが、書き出してみると、腹は立ちませんでした。ただ、長いと思いました。
――三百五十日ぶんの櫃が、四つとも先方の家にある。
わたしの名前は、そのどこにも書いてありません。
◇
夕方、物置の扉が叩かれました。
開けると、旦那様が立っておられました。
外套はお召しでなく、上着だけです。手ぶらでした。用事があって来た方の立ち方ではありませんでした。
「入っても」
「どうぞ」
狭い部屋です。裁ち台と木箱で、人が二人立つと隙間がありません。旦那様は入口から二歩のところで止まって、裁ち台の上を見ておられました。ヘルガの上衣の裁ち屑と、測り終えた切れ端と、帳面が広げてあります。
「これは」
「羊毛の縮みを測ったものでございます。同じ布を湯につけて、乾かして、幅を比べます」
「数が二つある」
「洗いの軽いものと、しっかり洗ったものです。脂が残っていると、縮み方が変わりますので」
旦那様は切れ端を一枚つまみ上げました。指の腹で表面をこすって、それから裏返しました。
「脂は、洗うと落ちるのか」
「落ちます。ただ落としすぎると、水をはじかなくなります」
「はじかないほうが、悪いのか」
「この土地では悪うございます。雪に当たったときに、吸ってしまいますので」
「では、どこまで落とす」
わたしは帳面を開いて、数の並びをお見せしました。
そこから半刻ほど、話が終わりませんでした。
どこまで落とすか、落とした布はどう乾かすか、乾かした布はどこにしまうか。しまう場所を変えると何が変わるか。旦那様は次から次へと聞かれます。答えるとその答えの中の言葉をつかまえて、また聞かれる。途中から、わたしは立ったまま帳面に書き足しておりました。
この方の聞き方には、癖がございました。
「なぜ」とはお聞きになりません。「では、どうなる」とお聞きになります。理屈を求めていらっしゃるのではなく、先に何が起きるかを知りたいのです。おそらく普段、そういうものの決め方をしていらっしゃる。壁の石を積むにも、麦をいつ蒔くにも、この土地では理屈より先に、次に何が起きるかを言い当てられる者が要ります。
途中で一度、聞かれました。
「それは、誰に習った」
「母でございます」
「母上も、縫い手か」
「はい。ヴァルトハイムの支度は、母が縫っておりました。母が亡くなってからは、わたしが」
「亡くなったのは」
「十一のときでございます」
旦那様はそれ以上お聞きになりませんでした。代わりに、裁ち台の上の切れ端をもう一枚つまんで、また裏返されました。
この方は、たぶん、こういうことを聞ける相手がこれまでいらっしゃらなかったのだと思います。
「――日が落ちた」
旦那様が窓を見て、そう言われました。半刻のあいだで、いちばん短い言葉でした。
「では」
それだけ言って、出ていかれました。
◇
廊下でバルトが待ち構えておりました。
「奥様。旦那様は本日、百を越えました」
「数えていらしたのですか」
「扉の外におりましたので。三十で記録と申し上げましたが、あれは訂正いたします」
バルトは帳面に何か書き込んで、それから真顔で申しました。
「先の三人の奥様がたのときは、月に十でございました」
◇
その晩、わたしはもう一度、王都からの手紙を読みました。
二枚目の紙は、一枚目より少し安いものでした。同じ束から取れば同じはずですので、書き足したのだと思います。一枚目を書いたあとで、用件を思い出して足した。あるいは、用件のほうが後から決まった。
どちらでも構いません。
櫃は部屋の隅に置いてあります。中身は半分ほど出して、工房へ移しました。残っているのは婚礼衣装と、手をつけていない褥布が二組。
これを送れ、とは書いてありませんでした。新しく縫え、と書いてありました。
――新しく縫うには、麻が要ります。
この土地に麻はありません。買うなら王都から取り寄せるほかなく、取り寄せるには金が要り、金を出すのは嫁ぎ先です。つまりこの依頼は、わたしの手間だけでなく、この家の財布まで当てにしております。ヘドヴィヒ様はそこまで考えて書いたわけではないでしょう。考えていないから書けるのです。
わたしは手紙を二つに折りました。
暖炉は部屋にありません。この屋敷は暖炉が三つしかなく、寝室にはないのです。焼こうと思えば厨房まで持っていく必要がありました。
持っていきませんでした。
机の抽斗を開けて、いちばん下へ入れました。上に帳面を重ねて、閉めました。
捨てなかったのは、未練ではございません。あとで、いつ来た手紙かを数えられるようにしておくためです。
布の直しでも同じことをいたします。どこをいつ直したかを控えておかないと、二度目に開いたときに、前の直しを直してしまうのです。直しの上に直しを重ねた布は、そこだけ厚くなって、いちばん先に裂けます。
――一通目。
二通目が来るのは、たぶん半月後でしょう。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
羊毛の脂は、落としすぎると水をはじかなくなります。落とすほうがきれいになる、とは限りません。どこまで落とすかは土地で決まるので、王都の数はここでは使えないのでした。
次話、冬前の最後の行商が砦へ入ります。行商人は塩と鍋と、それから王都の噂を運んできます。ユーリアは布を裁っている最中にそれを聞きます。




