第41話 控えは、証拠になりません
六月十一日。九つでございます。
裁定所の広間は、去年の辺境の広間より狭うございます。卓が一つ。長いものが一つだけでございます。奥にホルスト様。その左右に書記が二人。
卓のこちら側に、椅子が並べてございます。窓は高いところに三つ。ひとつだけ開いております。開いているのは、いちばん北のものでございました。
南を開けますと、日が入って卓の上が白く飛びます。紙を並べる部屋で南を開ける者はおりません。
卓の天板には、緑の羅紗が敷いてございました。紙を置く卓には、必ず布を敷きます。木のままですと、下から反りが移りますので。羅紗は毛でございます。毛は静かでございます。紙を滑らせても音がいたしません。
◇
右手が、組合でございます。ヴァイス様。その隣に、書付を抱えた方が二人。
いちばん端に、ブルーメ様がお座りでございました。一年ぶりでございます。
痩せておられました。指は太いままでございます。あの指だけは痩せません。こちらを一度ご覧になって、それきりでございます。会釈もなさいません。詫びる顔でもございません。
左手が、わたしどもでございます。わたし。旦那様。ローゼ様。グレータ様。イルゼ様が、グレータ様の腕を支えておられます。
いちばん端に、リンデ様。昨晩の帳面を、膝の上に置いておられました。
◇
ホルスト様が、書付を読み上げられました。
<王都縫い手組合より、ブルーメ工房名義の登録三十七件につき、書式不備を理由とする登録し直しの願い出があった。>
<当所は本日、これを検分する。>
ヴァイス様が立たれました。卓の上に、束を置かれます。
三十七件ぶんの書付でございました。一件につき一枚。形と、寸法と、届け出の日と、届け出た者の名。それから帳に載っている名。
二つの名が並べて書いてございます。合っていないところには印がついておりました。
「三十七件、全部に印がついております」
ヴァイス様は、そうおっしゃいました。
「届け出た者の名と、帳の名が合っておりません。これが不備でございます」
◇
ホルスト様が、一枚ずつご覧になります。書記が番号を読み上げていかれます。三十七、読み上げるのに四半刻ほどかかりました。
読み上げのあいだ、わたしは番号と形の名だけを聞いておりました。
褥布の芯の留め方。袖の付け位置。耳の始末。肌着の脇の縫い代。手巾の角の落とし方。
どれも、地味なものでございます。見て分かるものは、ひとつもございません。着ている人にも分かりません。分かりますのは、二年か三年、使い続けたあとでございます。
三十七のうち、飾りの意匠はひとつもございませんでした。全部、保ちのための工夫でございます。
「ヴァイス殿」
「はい」
「不備を正す、と申されるのは、どちらへ正すことになりますか」
「組合の名へ、揃えます」
「届け出た者の名へは、正さぬのか」
「正せません」
「なぜ」
「届け出た者が、その形を作ったという証しがございませんので」
ヴァイス様は、束の中から一枚を抜かれました。
「たとえば、この二十二番でございます。届け出た者の名がございます。帳の名は、工房でございます。届け出た者が作ったのか、工房から預かって出したのかは、この一枚からは分かりません」
「分からぬな」
「分からぬものを、片方へ寄せることはできません。ですから、どちらでもない名へ揃えます。組合でございます」
わたしは、その言い方を聞いておりました。筋が通っております。
昨日、宿の広間で聞きましたのと、同じ筋でございます。
◇
「オストマルクの奥様」
ホルスト様が、こちらをご覧になりました。
「昨日、控えを十四枚お預かりしております」
「はい」
「これを、この場へ出されますか」
「はい」
書記が包みを持ってこられました。紐を外します。十四枚を卓の上へ並べました。日付の順でございます。
ホルスト様が一枚ずつ見ていかれました。それからヴァイス様のほうへ回されます。
ヴァイス様は、十四枚を、端から順にご覧になりました。速うございます。一枚に三つ数えるほどでございました。
八枚目のところで、指が止まりました。止まったのは一つ数えるあいだでございます。それから次へ行かれました。
十四枚を見終えて卓へ戻されます。
「ホルスト様」
「うむ」
「これは、控えでございますね」
「そう聞いておる」
「どなたがお書きになったものでございますか」
「奥様」
ホルスト様が、こちらへ向き直られます。
「十四人が、それぞれご自分でお書きになったものでございます」
「いつ」
「日付が入っております。二十九年前から、二十三年前まででございます」
「どちらで、お預かりになりましたか」
「わたしの母の遺した褥布の、芯地の中でございます」
「解かれたのは」
「わたしでございます。この春でございます」
ヴァイス様は、うなずかれました。それから、ホルスト様のほうへ向き直られます。
「ホルスト様。この十四枚は、証拠になりません」
◇
広間の音が変わりました。誰も何も申しません。椅子が一つ動きました。ローゼ様の椅子でございます。
「控えは、届け出る者が自分で作る紙でございます」
ヴァイス様の声は、低くも高くもございません。
「誰も見ておりません。判もございません。日付も、書いた者が自分で入れます」
「うむ」
「この紙が二十四年前に書かれたものだと申せますのは、書いた本人だけでございます。十四人のうち、九人は亡くなっております」
「残る五人のうち、二人がここにおられます」
ヴァイス様は、ローゼ様とグレータ様のほうへ、軽く頭を下げられました。馬鹿にした下げ方ではございません。
「お二人が、ご自分の一枚をご自分で書いたと仰るのであれば、その二枚については、そう伺います」
「では、二枚は」
「二枚は、二枚でございます。三十七件のうちの、二件でございます」
ホルスト様がしばらく黙っておられました。それから、こうおっしゃいます。
「奥様。私文書は、それ単体では証しにならぬ。これは決まりでござる」
「はい」
「日付の入っておるものは、なおのこと難しい。日付は、書いた者がいくらでも入れられるゆえ」
「はい」
「お二人の分は、伺う。残る十二枚は、これだけでは動かせぬ」
わたしは、立っておりました。立って卓の上の十四枚を見ております。
二十九年前の紙。二十四年前の紙。紙を洗って使った二枚。書き慣れていない字の一枚。線が震えて、丸いところが途中で切れている一枚。
母の八枚目。
この十四枚は、紙としては何の値打ちもございません。麻紙が十四枚。三枚は薄く、二枚は洗い返し。売れば、何にもなりません。
書いてあることも、大したことではございません。四隅から三寸に四つ。脇の下から三寸、返しは三度。そういうことでございます。
二十九年前、それを書いた者は、これで自分の名前が帳に載ると思っておりました。
去年、この方々の前で、わたしは一言だけ申しました。裏を、ご覧ください。
それで足りました。足りましたのは裏に違いがあったからでございます。
今年は、申し上げました。母の遺した褥布の芯地から出たものでございますと。解いたのはわたしでございますと。
申し上げても、足りません。
◇
わたしは、椅子へ戻りました。旦那様がこちらをご覧になりました。何もおっしゃいません。
「ヴァイス殿」
「はい」
「三十七件の登録し直し、当所として異存はない」
ヴァイス様が、一礼されました。
「では、書式を」
「うむ。ただ、一つだけ確かめておく」
ホルスト様は束の上に手を置かれました。
「この三十七件の帳は、いつ、誰が書いたものか」
ヴァイス様は、少しのあいだ黙っておられました。
「……前の代の帳付けでございます」
「その者は」
「三年前に、退いております」
「存命か」
「存命でございます」
「ここへ呼べるか」
「呼べますが、いまはおりません」
左手の端で、椅子が動きました。リンデ様が立ち上がられます。膝の上の帳面を両手で持っておられました。
◇
「ヴィルマ・リンデでございます」
◇
「ブルーメ工房の帳を、三十年書いておりました」
◇
「三十七件、全部わたくしの手でございます」
布は、裏に本当のことが書いてあります。
私文書は、それ単体では証しになりません。日付が入っているものは、なおのこと難しゅうございます。日付は、書いた者がいくらでも入れられますので。ですから、日付というのは、それ一つでは何も申しません。何かを申しますのは、別の日付と並べたときだけでございます。
次話、卓の上に、二冊の帳面が並びます。
ブックマークと評価をいただけますと、この工房が続きます。




