第40話 リンデ様が、帳面を持ってまいりました
わたしは階段を下りて、宿の戸を開けました。リンデ様は、灯りの外に立っておられます。
外套は焦茶の綾織。肘の当て布は、表から当てたままでございました。
両手で、帳面を抱えておられます。抱え方が荷物の抱え方ではございません。胸の前で両腕を下から回して、下を支えておられます。落とさないためではなく、濡らさないための持ち方でございました。
この日、雨は降っておりません。
王都から辺境まで十九日。帰りは道が開いてすぐに出られました。四月の初めには着いておられます。それから二か月。この方は王都で、この帳面を持って歩いておられました。
◇
「奥様」
「リンデ様」
「夜分に、恐れ入ります」
「お入りください」
「いえ」
リンデ様は、そこから動かれませんでした。
「先に、申し上げておくことがございます」
この方は、いつもそうでいらっしゃいます。辺境の門のところでも工房の卓でも同じでございました。先に申し上げることがある、とおっしゃってから話されます。
順番を決めてから口を開かれる方でございます。
「はい」
「奥様は、わたくしをお呼びになりませんでした。手紙もお出しになっておられません」
そのとおりでございます。呼んでおりません。出してもおりません。辺境の坂で見送りましてから二か月と少し。こちらからは何もしておりませんでした。
「では、参りましたのは、わたくしの都合でございます」
わたしは、そこで一度息を置きました。都合、とおっしゃいました。
この方は償いとも筋とも仰いません。仕事の言葉しかお使いになりません。
「はい」
「そう申し上げておきませんと、明日、奥様が頼まれたことになります」
「なりますか」
「なります。頼まれて出てきた者の言うことは、割り引いて聞かれますので」
◇
リンデ様は帳面を差し出されました。わたしは受け取りません。
受け取れば、この方の持ってきたものがわたしのものになります。
「明日、ご自分でお出しください」
「……はい」
「リンデ様。それは、何でございますか」
「手控えでございます」
「手控え」
「帳付けの、でございます」
◇
リンデ様は帳面を胸のところで開かれました。灯りの届かないところでございます。字は見えません。
厚みだけは分かります。指の三関節ほどでございました。
「帳へ書きますときは、その日のうちに、こちらへも書きます」
「同じことを、二度」
「同じことではございません。帳には、届け出のことだけを書きます。こちらには、書いた日と、順と、墨のことを書きます」
「墨」
「はい。その日にどの墨を摺ったか。摺り置きを使ったか、新しく摺ったか。摺り置きは、二日目から色が沈みます」
リンデ様は、帳面を閉じられました。
「三十年、これを書いております」
◇
帳付けの手控えというものが、そういうものだとは存じませんでした。帳は組合のものでございます。組合のものは組合が持ちます。持って帰ることはできません。
書いた者の手元に残りますのは、書いたという記憶だけでございます。記憶は二十年で薄れます。
薄れるのが分かっている者は、書きます。いつ、どの順で、どの墨で書いたか。それは帳には要らないことでございます。要らないことを三十年、毎日書き足しておられます。
誰かに見せるためではございません。見せる相手がおりませんので。
わたしは、その意味をそこで掴みました。掴んで、指が冷たくなります。去年の冬に一度、同じ冷たさがございました。
◇
登録の帳は順に並んでおります。並んでおりますが、並びは番号の順でございます。番号の順は書いた順とは限りません。
空けておいた行へ、あとから書き入れることができます。それが、できます。
書き入れたときの墨は、前後の行とは違います。
「リンデ様」
「はい」
「四十七番は、いつお書きになりましたか」
リンデ様はしばらく黙っておられました。それから、こうおっしゃいます。
「十一年前の秋でございます。帳にも、そう書いてございます」
「では」
「同じ日に、ほかの十の番も書いております」
◇
登録の番は一から順に振ってまいります。届け出は毎日あるものではございません。ある月に五つあって、次の月に一つもないということがございます。
そこで、あらかじめ行を空けておきます。届け出があったら埋めます。埋めないまま年を越したところは、様式を改めるときに始末をいたします。
始末というのは、埋めるか抹消するかでございます。抹消いたしますと番が飛びます。番の飛んだ帳は、あとで必ず問われます。
ですから、埋めます。
わたしは戸の枠に手をかけました。かけたまま立っております。
「同じ日に、十一。二十四年前と二十三年前の届け出を、十一年前にまとめて」
「まとめて、でございます」
二十四年前の届け出が、十一年前の墨で書いてございます。届け出た者の知らないうちに十三年が経ちました。その形が、別の名前で帳に載っております。載せた日は、帳の上では二十四年前でございます。
「なぜ、そのようなことを」
「組合が帳の様式を改めまして、古い帳を新しいものへ移すことになりました」
リンデ様の声は低いままでございます。
「移しますときに、空いている番を埋めます。埋めませんと番が飛びます。飛んだ番は、あとで問われますので」
「埋める形は、どちらから」
「工房に、控えの束が残っておりました」
「……控えは、燃やすものでございましょう」
「燃やしましたのは、あの十四枚でございます。ほかにも、束はございました」
◇
通らなかった届け出の控えは、燃やす決まりでございます。燃やしますのは帳付けでございます。帳付けが燃やさなければ残ります。
残ったものは、工房の奥のどこかに束になって積まれます。積まれたまま年が経ちます。
十一年前の秋、帳を新しい様式へ移すことになりました。空いた行が十一ございます。埋める形が要ります。
要るところに、束がございました。
わたしは、そこで気がつきました。十四枚だけではございません。
通らなかった届け出は、あの二年だけのものではございません。三十年ぶん、どこかにございます。
三十七件でございます。
「リンデ様」
「はい」
「三十七件の帳を、あなたはいつお書きになりましたか」
「十一年前の秋に、十一。それより前が、二十六でございます」
「二十六は」
「届け出のあった日に、その日のうちに書いております」
「では、十一だけが」
「十一だけが、届け出の十三年後に書かれております」
リンデ様は帳面を胸へ戻されました。
「墨が違います」
「はい」
「行の間隔も違います。十一年前のわたくしは、五十一でございました。二十四年前のわたくしは、三十八でございます。同じ手ではございません」
「それは、卓の上で分かりますか」
「並べれば、分かります。どなたにでも」
並べる、と申しますのは、帳と手控えを一緒に開くということでございます。帳の十一の行と、手控えの十一年前の秋の頁。日が合えば、そこで書かれたことになります。合わなければ、その理由を申し上げることになります。
どちらにしても、申し上げますのはこの方でございます。三十七件のうち二十六件は、届け出のあった日に書かれております。それもこの方の手でございます。二十六件の側から見れば、この方は三十年、正しく書いてきた帳付けでございました。
その方が、十一件だけは違うと申し上げます。
◇
リンデ様は、そこで初めて灯りのところまで一歩お出になりました。顔が見えます。冬のあいだ毎日見ておりましたお顔でございました。
「奥様。ひとつだけ、申し上げてよろしいですか」
「はい」
「明日、わたくしが申し上げますことで、あの十四人の名前が帳に載るわけではございません」
「はい」
「載りますのは、わたくしが後から書いたということだけでございます」
「それで足りますか」
リンデ様は、そうお聞きになりました。わたしに聞いておられるのではございません。ご自分に聞いておられるのだと思いました。
わたしは、こう申しました。
「足りません」
「……はい」
「足りませんが、それがなければ、何も始まりません」
リンデ様はお辞儀をされました。それから通りのほうへ向き直られます。
「宿は、二つ先に取ってございます」
「リンデ様」
「はい」
◇
わたしは、そのときお引き止めしようとしておりました。中でお休みください、と申しかけて、申しません。
申せば、明日この方が申し上げることが、こちらの世話になった者の言葉になります。
「明朝、九つでございます」
「存じております」
わたしは、それ以上申し上げませんでした。
◇
リンデ様は通りを歩いていかれました。三度、止まっておられます。
止まって腰の後ろへ手を回されます。それからまた歩き出されます。辺境の坂を降りていかれたときと同じでございました。
◇
違うところがひとつだけございます。
手ぶらではございませんでした。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
摺り置きの墨は、二日目から色が沈みます。ですから、同じ帳面の同じ行でも、その日に摺ったか摺り置きかで、乾いたあとの黒が違います。字の形はいくらでも似せられますが、墨の沈み方は、書いた日そのものでございます。三十年ぶん書き溜めた者は、そういうことを毎日書いております。
次話、卓が開きます。控えは、証拠になりません。




