第4話 奥様は、まだ奥様ではございません
ミナの婚礼は三日後に済みました。
わたしは呼ばれておりませんでしたので、様子は聞いただけです。裾の線は出なかったそうです。誰も何も言わなかったそうです。
それでよいのでございます。直しというのは、直したと分からないのが上等でして、「きれいに直りましたね」と言われるうちはまだ足りません。
ただ、話は広まりました。
翌朝、厨房の脇を通ったら、洗い場の女たちが手を止めてこちらを見ました。見て、目が合うと、そらしました。悪意ではありません。何と呼べばいいのか分からないのだと思います。婚礼は済んでおりませんし、日取りも決まっておりません。
◇
「奥様は、まだ奥様ではございません」
バルトはそう言って、廊下の突き当たりの扉を開けました。
「けれど客人でもございません。ですので、この屋敷では『奥様』ということにいたしました。わたくしが決めました」
「決めてよろしいのですか」
「わたくしが決めなければ、誰も決めません。旦那様は日取りを決めない方でございますので」
開いた部屋は、north向きの物置でした。窓は高いところに一つ。床は板で、隅に木箱が積んであります。埃はありますが、湿ってはおりません。壁が二重になっているのだそうです。
「ここをお使いくださいませ。もっとも、日は入りません」
「日は入らないほうがよろしいのです」
「はあ」
「日に当てると布が焼けます。焼けた布は、色が抜けて弱くなります。乾かすのは風で、日ではございません」
バルトはしばらく黙って、それから帳面を出して何か書きました。
「奥様。念のため伺いますが、そういうことをご存じの方は、王都では珍しいのでございますか」
「珍しくはございません。縫う者なら誰でも知っております」
「なるほど。ではこの屋敷には、縫う者がひとりもおらなんだ、ということでございますな」
◇
その日から三日かけて、わたしは屋敷の布を検めました。
やり方は決まっております。まず畳んであるものを開いて、折り目に鼻を近づける。匂いは黴の一歩手前で出るのです。次に光にかざさず、逆に暗いほうを背にして、表面を斜めから見ます。黴の初めは白っぽい粉で、正面からでは分かりません。最後に指の腹で撫でて、ざらつきを探しました。
寝具は十七組ございました。そのうち十一組から匂いが出ました。四組はすでに粉が浮いております。
広間の幕は、上の三尺だけ無事で、下は黒い点が散っておりました。石の壁を伝った水を、幕の裾が吸い上げていたのです。
卓布は十四枚のうち九枚。手巾に至っては、ほとんど全部でした。
わたしは帳面を作って、部屋ごとに数を書いていきました。書きながら、これは屋敷の落ち度ではないと思っておりました。王都と同じ手入れをすれば、この土地ではこうなります。同じことをして違う結果になるのは、土地が違うからでございます。
いちばんひどかったのは、二階の突き当たりの納戸でした。
扉を開けたときの匂いで分かりました。甘いような、土のような、少し埃に似た匂いです。中には季節外れの寝具が畳んで積んでありました。夏に使って、洗って、しまったものでしょう。積んだいちばん下から数えて三組目を引き出すと、折り目に沿って黒い線が入っておりました。
畳んだ布は、折り目のところで二枚が密着します。密着した面のあいだには風が通りません。だから折り目から来るのです。
わたしはその納戸の寝具を全部、廊下へ出しました。数えると九組ありました。九組のうち、まだ直せるのが五組。残る四組は、洗っても黒い点が抜けません。抜けない点は、繊維そのものが食われているからです。
バルトは廊下に積み上がった布を見て、しばらく何も言いませんでした。
「これは、捨てるのでございますか」
「四組は、捨てるほかございません」
「はあ」
「けれど五組は戻ります。それから、ここに置いてある限り、来年も同じことが起きます。しまう場所を変えます」
「変えて、よろしいので」
「よろしくないのでしたら、来年また四組捨てることになります」
◇
「よそ者の布だ」
洗い場の裏で、そう言われました。
振り向くと、五十くらいの女の方が立っておりました。腕が太くて、袖をまくり上げたところに火傷の跡があります。
「グレーテと申します。女中頭でございます」
言葉は丁寧でしたが、目は丁寧ではありませんでした。
「奥様は、うちの寝具を数えてお歩きだそうで」
「はい。十一組から匂いが出ております」
「出ますとも。ここらは出るんです」
「出ないようにできます」
グレーテは干し綱にかかった布を一枚、荒く引き下ろしました。乾いておりません。畳んで籠へ入れて、こちらを見ずに言いました。
「前の奥様も、そう仰いました」
わたしは何も返せませんでした。
「三人とも仰いました。ここらのやり方は間違っている、王都ではこうする、と。それで、みなさま冬にいなくなりました」
籠を抱えて、グレーテは行ってしまいました。
干し綱には、まだ二枚残っておりました。わたしはそれを取り込みました。取り込んで、洗い場の梁に渡した棒へかけ直しました。外より中のほうが、この時期は乾きます。風が通れば、日は要りません。
かけ直しながら、いま言われたことを考えておりました。
三人とも同じことを言った、というのは、たぶん本当なのでしょう。王都から嫁いできた娘が、この土地の湿気を見て「間違っている」と言うのは自然なことです。わたしも、あと少しで同じことを言うところでした。
けれど、間違っているのはやり方ではありません。やり方は土地に合っています。合っていないのは、王都で仕立てた布のほうです。
この土地の人は、この土地の布を、この土地のやり方で扱ってきました。それで何百年もやってきたのです。壊れているのは、外から持ち込まれた側でございます。
そしてわたしの櫃には、一枚残らず麻が入っております。
――わたしのほうが、よそ者なのだわ。
棒にかけた布の端から、水が一滴落ちました。石の床が音を吸って、ほとんど聞こえませんでした。
◇
夕方、物置の埃を落として、母の道具を並べました。
裁ち鋏、握り鋏、目打ち、へら、針山、糸巻き。それに宿で買った毛糸が二玉。木箱を三つ積んで台にして、その上に板を渡すと、裁ち台になりました。低いのですが、床に座って裁つならこの高さです。
わたしは板の表面を手のひらで撫でました。ささくれが二か所ありましたので、へらの背でならしました。ささくれの残った台で布を引くと、繊維が引っかかって毛羽が立ちます。毛羽の立った布は、縫っている最中は気づきません。洗って乾かしたときに、その部分だけ白く見えます。
鋏は壁に釘を打って掛けました。裁ち鋏を寝かせて置くと、刃の重みで少しずつ狂います。掛けておけば十年もちます。母の鋏は、たぶん三十年ものです。
糸巻きは箱に立てて並べました。寝かせると糸が巻きから落ちて絡みます。立てて、太い順に左から。暗い部屋で手探りしても、太さで見当がつくようにしておきます。
窓の外はもう暗く、風の音だけがしておりました。
――冬にいなくなった。
病でも事故でもなく、そういう言い方をされる何かが、この家にはあるのでしょう。
わたしは灯りをひとつ点けて、帳面を開きました。寝具十七組。幕四枚。卓布十四枚。直す順を決めなければなりません。全部は無理でございます。冬までに間に合うのは、たぶん半分。
順を書き終えたところで、扉を叩く音がしました。
開けると、十四か十五くらいの娘が立っておりました。腕いっぱいに布を抱えております。片方は生成りの麻で、片方は灰色の羊毛でした。
「あの、婚礼の。合わせて仕立てたいんですけど、どうしても」
布は、裏に本当のことが書いてあります。
乾かすのは風で、日ではありません。日に当てた布は色が抜けて弱くなります。北向きで日の入らない物置が、実は工房にいちばん向いている、というのはそういう理屈でございます。
次話、麻と羊毛は縮み方が違うので、そのまま縫い合わせると一度の洗いで歪みます。ユーリアはこの二枚を、表では合わせません。
ブックマークで続きが届きます。




