第3話 これを縫った者と話がしたい
その方は、いちばん上の婚礼衣装には手を触れませんでした。
脇へ寄せて、二枚目の褥布も飛ばして、三枚目の肌着を取り出しました。両手で持って、明かりのほうへ向けます。透かして見ているのではありません。目の高さは布より下でした。表を見ずに、縁を見ているのです。
それから、裏返しました。
脇の縫い代を指でたどって、途中で止めて、また戻します。ひとつの箇所を三度なぞってから、次の肌着を取りました。同じことをします。三枚目でようやく手が止まりました。
布を検める人には二通りございます。表を見る人と、裏を見る人です。
表を見る人は、まず色と艶を見ます。染めの均一さ、織りの目の細かさ、皺の寄り方。これは布そのものの値打ちでして、縫い手の仕事とは関係がありません。買ってきた布がよければ、誰が縫っても表はきれいに見えます。
裏を見る人は、縫い代の始末を見ます。切りっぱなしか、折り込んであるか、折り込んだうえで押さえてあるか。糸が渡っていないか。角の処理で布を重ねすぎていないか。ここは着る人にも見えませんので、手を抜いても誰にも分かりません。だから、手を抜かなかったかどうかだけが残ります。
この十年、うちの櫃を検めにきた家の使いは、全員が表を見ました。明かりに透かして、染めむらを探して、それで納得して帰っていきました。
石の広間は寒くて、外套の裾から雪が溶けて床に落ちる音がしておりました。
その方が顔を上げました。
「これを縫った者と話がしたい」
わたしは、ひと呼吸おきました。
こう言われたことがなかったのです。十年、一度も。支度は検められ、通り、家の格が上がり、縁談がまとまりました。そのたびに褒められたのはヴァルトハイムの名で、縫い手の話が出たことはございません。
「わたくしです」
その方は、初めてわたしを見ました。
目の色は薄い灰でした。表情はほとんど動きませんでしたが、肌着を持つ手の位置が少し変わりました。持ち替えたのではなく、力の入れ方が変わったのだと思います。布を扱い慣れた方の持ち方ではありませんが、雑ではありません。
「レオンハルト・フォン・オストマルク」
「ユーリア・ヴァルトハイムでございます」
「クラーラという名だと聞いていた」
「妹です。妹は、体を壊しましたので」
嘘でございます。けれど、ここで本当のことを申し上げる理由もありませんでした。
その方は肌着を櫃へ戻して、蓋を閉めずに立ち上がりました。
「日取りは、まだ決めない」
わたしは頭を下げました。
嫁いできた娘に婚礼の日取りを言わないというのは、普通ではありません。普通ではありませんが、七日の道中で聞いた話を思い出せば、理由の見当はつきます。三人いなくなった家です。四人目を急ぐ気にはならないでしょう。
「かしこまりました」
「不服か」
「いえ。荷を解く時間ができます」
その方は少しのあいだ、こちらを見ておられました。それから外套の雪を払って、来たときと同じ扉から出ていかれました。足音は廊下を右へ折れて、遠ざかりました。
櫃の蓋は、開いたままでした。
わたしは中の肌着を三枚とも畳み直しました。取り出されたものは、たいてい元と同じようには戻りません。折り目が変わると、そこから傷みます。
◇
「奥様、旦那様は本日、三十も口をきかれました。記録でございます」
部屋へ案内してくれたのは、白髪の家令でした。バルトと名乗りました。年は六十を越えているでしょうが、階段を上る足が速い。
「三十でございますか」
「わたくしは数えております。何しろ、ほかに数えるものがございませんので」
通されたのは南向きの部屋でしたが、日は入りません。窓の外は壁でした。
「奥様とお呼びしてよろしいので? まだ婚礼が済んでおりませんが、便宜上ということで」
「ご随意に」
部屋の壁は石をそのまま見せてあって、床から腰の高さまでに、うっすら白いものが浮いておりました。塩ではありません。石から出るものです。触ると指に粉がつきます。その高さより上は、乾いて見えました。湿気は下から上がってくるのだと分かります。
寝台は壁から一尺離して据えてありました。誰かが、離したほうがよいと知っていたのでしょう。
バルトは掛け布を直しながら、こちらを見ずに続けました。
「先の三人の奥様がたも、この部屋でございました」
わたしは掛け布に手を触れました。
厚手の毛織です。手のひらを当てて、離して、指を見ました。うっすら湿っております。畳んだ折り目のところが、ほんの少し色が濃い。
「バルト様。この掛け布は、いつ洗いましたか」
「はて。秋の初めかと」
「干した場所は」
「洗い場の裏でございます。日は当たりませんが、屋根がございますので」
わたしは折り目を開いて、鼻を近づけました。匂いはまだ薄い。けれど、あります。
「これは、来月には黴が出ます」
バルトが初めてこちらを向きました。
黴は汚れから出るのではありません。乾ききらなかった水から出ます。洗ったあとに芯まで乾かないと、繊維の奥に水が残ります。そこへ暖炉の熱が入ると、内側だけがぬるくなって、外からは分かりません。畳んで棚に置いた三週目あたりに、匂いから始まります。
この掛け布は、たぶん去年もそうでした。その前の年も。
◇
昼を過ぎて、厨房のほうから娘がひとり、包みを抱えてやってきました。
砦の炊事係でミナと申します。十七だそうです。三日後に婚礼を控えていて、衣装がどうしても足りない、と言うのです。
「足りない、といいますと」
「布が。母のを直して着るんですけど、どうしても丈が」
広げてみました。古い麻の一枚仕立てで、ずいぶん着込んであります。丈は確かに短い。継ぎ足すにも、同じ色の布がありません。
わたしは裾を裏返しました。
折り返しが、二寸きっちり取ってあります。母上が取ったのでしょう。娘が伸びることを見越して、返しを深く取ってあるのです。ですから丈は足りております。
足りていないのは、別のものでした。
「ミナさん。この裾、一度伸ばしましたね」
「はい。去年、母が」
「そのとき、当て布を入れませんでしたか」
ミナは首をかしげました。
折り返しを伸ばすと、それまで内側にあった布が表に出ます。内側は日に焼けておりません。伸ばした部分だけ色が濃く残って、線が出るのです。線が出た衣装は、遠目にはくたびれて見えます。婚礼で人に見られる衣装が、くたびれて見えてはいけません。
直しかたは二つございます。全部染め直すか、当て布を一枚入れるか。
染めは三日では乾きません。この土地なら、なおさらです。
わたしは衣装をもう一度、膝の上で広げました。
肩の縫い目が、片方だけ厚くなっております。着る人の癖です。ミナの母上は右肩に荷を担ぐ方だったのでしょう。脇の下は擦れて薄くなっていて、そこだけ光を通します。裾の折り返しの中は、外に出ていた部分より二段ほど色が明るい。
古い布は、着ていた人のことを覚えております。覚えているだけで、何も言いません。
「裏に一枚、足します」
「裏、ですか」
「表は触りません。裾の内側に、色の合う布を一枚まわして縫いつけます。そうすると布が二重になって、光が透けなくなります。透けなければ、線は消えます」
「そんなことで」
「そんなことでございます」
わたしは針山から針を抜きました。
櫃を開けて、卓布の余りを出しました。生成りの麻です。ミナの母上の布より少し明るいけれど、裏に入れるものですから構いません。裁ち鋏を入れると、乾いた音がしました。母の鋏です。刃が薄くて、麻をつぶさずに切ります。
当て布は、裾の形に沿ってわずかに広く裁ちます。まっすぐに裁つと、着たときに裾が突っ張ります。人の腰は前より後ろが長いので、布も後ろを一分だけ足します。
縫いつけるのは表からではありません。当て布の縁を内側へ折って、その折り山を、表の生地の裏側だけすくって留めていきます。針を布の厚みの半分で通す、あの縫いでございます。
「奥様、それ、時間かかりませんか」
「かかります。半日ほど」
「三日後なんです」
「では、間に合います」
ミナは笑いました。それから、笑ったことに自分で驚いたような顔をしました。この土地の人は、たぶん、間に合うと言われることに慣れていないのです。
ミナが衣装を押さえて、わたしは裾の内側へ手を入れました。
表からは、何も見えません。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
折り返しを深く取っておくのは、子が伸びるからです。伸ばした年に当て布を入れておかないと、日に焼けた線が出ます。ミナの母上は返しを二寸取るところまで見越していて、その先だけ知らなかったのでした。
次話、ユーリアは屋敷じゅうの布を一枚ずつ検めて回ります。掛け布、卓布、幕、寝具。そして家令に「全部でございます」と言われます。
ブックマークと評価をいただけますと、この工房が続きます。




