第2話 呪われた辺境へ、十年ぶんを運びます
街道は三日目から白くなりました。
わたしは毎晩、宿に着くと櫃を開けて灰の袋を取り替えました。灰は湿気を吸うと重くなります。手に持って重いと感じたら、もう吸えません。宿の主人に頼んで暖炉の灰をもらい、袋に詰め替えて、四隅へ戻します。それだけのことですが、これを怠ると七日で布に匂いがつきます。匂いのついた支度は、洗っても取れません。
御者のヨハンは、最初の二晩はわたしが何をしているのか黙って見ておりました。三晩目に、灰の袋を持ってきてくれるようになりました。
「奥様は、ずいぶん布を大事になさる」
「わたしが縫ったものですから」
ヨハンは何か言いかけて、やめました。
道は日ごとに変わりました。二日目までは石畳で、宿場ごとに馬を替えられます。三日目からは土の道。そこへ雪が乗って、轍が凍ります。凍った轍は轍の形のまま硬くなりますので、橇の板がそこへ落ちると音が違うのです。ヨハンはその音で速さを決めているようでした。
わたしは荷台の縄を毎朝結び直しました。麻縄は濡れると伸びるのです。伸びた縄は、見た目に張っていても荷が動きます。朝いちばんに一度きつく締めておけば、昼までは保ちました。
◇
噂は四日目の宿で聞きました。
女将が食事を運んできて、行き先を聞いて、それから声を落としたのです。
「オストマルクへ行きなさるのかね」
「はい」
「三人だよ。三人とも、冬のうちにいなくなった」
わたしはパンをちぎる手を止めませんでした。麦の粗い、酸味のあるパンでした。王都のものより硬くて、噛むと顎が疲れます。
「呪われてるって話だよ。あの家に嫁いだ娘は、雪が溶けるころには誰もいない」
「そうですか」
「そうですかって、あんた」
女将はあきれた顔をして、それ以上は言いませんでした。
部屋へ戻って、わたしは寝台の上に婚礼衣装を広げてみました。麻の白。妹のために裁った寸法ですので、丈はわたしには少し長い。腰の位置も合いません。直すつもりはありませんでした。この衣装は、着るために持ってきたのではないような気がしておりました。
三人。冬のうちに。
――冬に何が起きるのでしょう。
病であれば、三人続くのは珍しいことです。事故であれば、なおさら。呪いであれば、わたしにできることは何もありません。けれど呪いというのは、たいてい、名前のついていない何かのことでございます。
わたしは灯りを消しました。
◇
六日目の朝、村で麻糸を買い足そうとしました。
王都から持ってきた糸巻きは六つですが、道中で一つ落としたのです。麻糸は太さが揃っていないと縫い目に段ができます。同じ太さのものを買えるうちに買っておこうと思いました。
村に一軒だけあった店で、女主人は首を振りました。
「麻はねえ。ここらじゃ置かないよ」
「置かない、といいますと」
「羊さ。麻は南のものだ。育たないもの」
棚には毛糸ばかりが並んでおりました。撚りが太くて、色は生成りと灰色と、茶が少し。手に取ると、王都のものより脂が残っています。洗いを軽くしてあるのでしょう。脂が残っている毛は水をはじきます。はじく代わりに、汚れも落ちません。
「奥様、麻なんぞ着てたら、冬に死ぬよ」
女主人は笑って言いました。冗談のつもりだったのだと思います。
わたしは毛糸を二玉だけ買いました。使うあてはありませんでしたが、置いておけば何かの折に足せます。
櫃の中身は、婚礼衣装から手巾まで、一枚残らず麻でございました。
◇
五日目の峠で、橇が傾きました。
凍った轍に片方の橇板が乗り上げて、荷台が斜めになりました。縄はかけてありましたが、櫃は重いのです。重いものは、傾いたときに縄より先に動きます。
わたしは飛び降りました。
櫃は雪の斜面を一間ほど滑って、灌木にぶつかって止まりました。わたしはその上に覆いかぶさるようにして、蓋の合わせ目を手で押さえました。雪は粉のように細かく、隙間という隙間へ入ろうとします。合わせ目から一寸でも入れば、上に置いた婚礼衣装から濡れます。
「奥様!」
ヨハンが馬を止めて駆けてきました。
「怪我は」
「ありません。それより、上を先に」
二人で櫃を起こして、雪を払いました。樫の板は雪をはじきますが、金具の周りだけは黒く濡れておりました。
その晩の宿で、わたしは蓋を開けました。
油紙は無事でした。灰の袋も乾いております。婚礼衣装は上から三寸ほど、裾のあたりが湿っておりました。指で触れると、麻がわずかに重い。濡れたのではなく、湿気が回った程度です。
わたしは暖炉から離れた場所に衣装をかけました。近づけてはいけません。麻は急に乾かすと縮みます。縮んだ布は、二度と元の寸法に戻りません。一晩かけて、部屋の空気でゆっくり抜くのが正しいのです。
ヨハンが戸口から覗いて、火に当てないのかと聞きました。
「当てると縮みます」
「はあ」
「明日の朝には乾いております。急ぐと駄目になるものは、たいてい急がなくても間に合います」
ヨハンは納得のいかない顔で戸を閉めました。
わたしは櫃の中身を全部出して、床に並べました。下から出したものほど乾いております。上に置いたものほど湿っている。詰め方は間違っていなかったということです。重いものを下にしていたら、いま濡れているのは褥布のほうでした。褥布は厚いので、一度湿ると三日は乾きません。
油紙を替えて、灰の袋を宿の暖炉のそばに置いて焼き直しました。焼いた灰は熱を持ちます。熱いまま袋へ戻すと、今度は布が汗をかきます。冷めるまで待って、それから詰めました。
全部を戻し終えたときには、蝋燭が半分になっておりました。
◇
七日目の朝、オストマルクが見えました。
城というより、砦でございました。石を積んだ壁が斜面に沿って伸びていて、その内側に建物が固まっている。屋根は黒く、勾配がきつい。雪を落とすためでしょう。木がありません。風を遮るものが何もない土地でした。
王都の屋敷なら、外から見て最初に目に入るのは窓の大きさです。ここは窓が小さく、数も少ない。壁の厚みのぶんだけ奥まっていて、外から中は見えません。人が住む場所というより、冬をやり過ごす場所の作りでした。
門をくぐると、空気が変わりました。
王都の冬は乾いています。ここは違いました。息をすると、鼻の奥に湿ったものが入ってきます。壁に触れると、石が汗をかいたように濡れておりました。
――これは、布には悪い。
そう思いました。
橇が中庭で止まって、人が四人出てきて、櫃を降ろしました。持ち上げたときに一人が「重い」と言って、もう一人が「花嫁の荷だ」と答えました。
中庭の隅に、洗い物を干す綱が張ってありました。布が三枚ほどかかっております。ここへ来て七日目にして、わたしが最初に見た布でした。
近づいて、指を触れました。
乾いておりません。おそらく昨日から出したままで、まだ乾いていない。この空気では乾かないのです。乾かない布を干し続けると、繊維の中で水が動かなくなって、そこから黴が来ます。干しているつもりで、育てていることになります。
――誰も、教える人がいなかったのだわ。
わたしは襟巻きを結び直して、櫃のあとをついていきました。
広間の床は石で、卓がひとつ置いてあります。櫃はその横に据えられました。
奥の扉が開いて、背の高い男の方が入っていらっしゃいました。外套を着たままで、髪に雪が残っております。どこかから戻ったばかりのようでした。
わたしを見ませんでした。
まっすぐ櫃のところへ歩いていって、片膝をついて、金具を外しました。
蓋が開きました。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
麻を火に近づけて乾かすと縮みます。縮んだ寸法は戻りません。ですから濡れた麻は、離れた場所で一晩かけて抜くのが正しいのです。急ぐと駄目になるものは、たいてい急がなくても間に合います。
次話、辺境伯は箱の中の肌着を一枚だけ取り出して、裏返します。そして名乗るより先に、ひとこと言います。




