第1話 妹の婚礼衣装は、あと三百目で仕上がります
この国の縁談は、花嫁が持参する支度の縫い目で値踏みされます。
あと三百目で、妹の婚礼衣装が仕上がります。
裾の折り返しを膝に乗せたまま、わたしは針を動かしていました。折り返しは二寸。表に糸を出さずに、裏の一枚だけをすくって進みます。針先が布の厚みの半分より深く入れば、表に点が浮くのです。浅ければ、洗ったときに抜けてしまう。半分のところをずっと通す。それがこの縫いのすべてでございます。
継母のヘドヴィヒ様が何かをおっしゃっているのは聞こえていましたが、いま手を止めるわけにはまいりません。麻は湿ると伸びるのです。夕方に裁って、夜のうちに縫い切ってしまわないと、明日の朝には目が浮きます。浮いた目は、ほどいてやり直すしかない。ほどけば布に穴の跡が残ります。跡の残った婚礼衣装を、櫃には入れられません。
「ユーリア。聞いていて?」
「はい」
二百九十七、二百九十八。
「オストマルクの辺境伯から、四度目のお話をいただきましたの。けれどクラーラが、どうしても嫌だと申しまして」
三百。糸を止めて、歯で切りました。
「ですから、あなたが行きなさい」
わたしは顔を上げました。
膝の上には、妹の婚礼衣装があります。襟から裾まで、わたしが縫いました。その足元の櫃には、肌着が六枚と、褥布が四組と、卓布が二枚と、手巾が十二枚。産着まで入っております。全部、わたしが縫いました。
この国では、花嫁は支度をひと櫃ぶん持って嫁ぎます。相手の家はまずそれを検めます。布の質ではありません。縫い目です。目が揃っているか、縫い代の始末が丁寧か、裏で糸が遊んでいないか。そこで嫁ぐ娘の家の格が決まります。よい支度は三代もちます。悪い支度は最初の冬で裂けます。三代もつ櫃を出せる家は、それだけで信用が違うのです。
ヴァルトハイム伯爵家の縁談が十年まとまってきたのは、うちの櫃の縫い目がよかったからでございます。
「わかりました」
ヘドヴィヒ様が、ほんの少しだけ眉を動かしました。もっと何かを言うと思っていらしたのでしょう。
この方が縫い部屋まで下りていらっしゃるのは、年に二度か三度です。階段が急で、ご本人は「膝に障る」とおっしゃいます。今日は膝に障るのを押していらした。それだけで、話がもう決まっているのだとわかります。
◇
「だってお姉様、ほかにすることがないじゃない」
妹のクラーラが、扉のところから顔を出しました。四度目の破談の翌週から、この子はよく笑うようになりました。
「オストマルクの辺境伯って、奥様を三人も亡くしているのよ。呪われているんですって。冬のあいだに、みんな死んでしまうって」
「そう」
「怖くないの?」
わたしは針を針山に戻しました。針は使い終わったら必ず数えます。一本でも布のどこかに残っていれば、それは着る人の肌に刺さります。母がそうしておりましたので、わたしもそうしております。
「怖いというより、寒そうです」
クラーラは少し黙ってから、つまらなそうに肩をすくめて行ってしまいました。この子には悪気がありません。悪気がないというのは、いちばん直しようがないことでございます。
ヘドヴィヒ様は櫃の蓋を開けて、中を検めていらっしゃいました。指の先で肌着の襟をつまみ、二枚重ねて明かりに透かしていらっしゃる。何を見ておいでなのかは存じません。この方は縫えないのです。縫えない方が布を透かしても、糸目は見えません。
「支度はこのまま持っておいきなさい。もう一度ぜんぶ縫い直す暇はありませんもの」
「はい」
「先方には、クラーラが体を壊したと伝えます。あなたは名を出さなくてよろしいのよ。ヴァルトハイムの娘、ということで通りますから」
名を出さなくてよろしい。
この言葉は、この十年で三十回ほど聞きました。妹の縁談の支度に、わたしの名が入ったことは一度もありません。縫い手の名は入れないのが決まりだと、ヘドヴィヒ様はおっしゃいます。
――決まりではありません。名を入れる家は入れます。
「長女が針を持つのは、体裁が悪いのですよ」
ヘドヴィヒ様はそうおっしゃって、蓋を閉じました。悪意はございません。心の底からそう思っていらっしゃるので、こちらとしては返しようがありません。
◇
その晩、わたしは自分の部屋へ櫃を運ばせて、もう一度開けました。
旅に出す荷は、詰め方が半分でございます。まず底に油紙を敷きます。次に灰を袋に入れたものを四隅へ。灰が湿気を吸ってくれるのです。厚手の褥布を下、肌着を真ん中、婚礼衣装をいちばん上。重いものを下に、と考えがちですが、逆でございます。折り皺のついて困るものほど上に置く。畳んだ折り目には手巾を挟んで、角が立たないようにします。
七日の道中で、この櫃は何度も傾きます。傾いても中が動かないところまで詰めて、はじめて蓋を閉められるのでございます。
最後に肌着の一枚を取り出して、脇の縫い代を裏返しました。
指の腹でなぞると、糸の盛り上がりがわずかにあります。母から教わった形です。縫い代の内側、脇の下から三寸のところで、糸を三度だけ返して小さな結び目をひとつ。表からは絶対に見えません。着る人にも見えません。洗っても取れません。
母は理由を教えてくれませんでした。ただ、縫い終わりにはここを入れるのだと、そう言って手を取って三度返させました。わたしが七つのときです。返す向きを間違えると、ほどいてやり直しでした。向きに意味があるのだろうと思っておりましたが、何の意味かは聞かないうちに母が亡くなりました。
癖のようなものでした。誰も見ないので、意味もありません。
わたしはそれを畳んで戻し、蓋を閉めました。
櫃は樫の一枚板で、角を鉄の金具で留めてあります。母が嫁いできたときのものだそうです。中の布はぜんぶわたしが縫いました。持っていってよいと言われたのですから、これはもう、わたしのものと思ってよいのでしょう。
父は寝室から出てまいりません。三年前から臥せっております。わたしが嫁ぐことは、たぶん明日には伝わります。伝わったところで、起き上がれる方ではありません。
廊下の向こうでクラーラが女中と何か話して、笑っておりました。
わたしは灯りを消す前に、針山の針をもう一度数えました。十二本。全部あります。
◇
朝は霜が降りておりました。
橇は思っていたより小さく、荷台に櫃をひとつ載せると、あとは人ふたりぶんの隙間しか残りません。御者のヨハンが縄をかけながら、荷が高いと坂で振られる、と申しました。ですから櫃を後ろへ寄せ、上に毛布を二枚かけて、その上からもう一度縄を回してもらいました。毛布は雪よけではありません。縄が直接あたると、樫でも角が潰れます。
わたしの荷はそれだけです。着替えを包んだものと、母の裁ち鋏と、針山と、糸巻きを六つ。糸は北では手に入らないかもしれないと思って、麻糸を多めに入れました。
玄関には誰も出てまいりませんでした。
二階の窓が開いて、クラーラが顔を出しました。寝間着のままで、髪も結っておりません。
「お姉様、道中お気をつけて」
この子は本当にそう思っているのです。だから返事のしようがありません。
「ええ」
窓が閉まりました。ヘドヴィヒ様は出ていらっしゃいません。父の部屋の鎧戸は、昨日と同じ位置で閉じたままでした。
橇が動きだして、門を出ました。
振り返ればまだ屋根が見えたはずですが、振り返りませんでした。首を回すと、襟巻きの結び目がずれるのです。北の道でこれが緩むと、あとで面倒なことになります。
――この家のためには、もう縫いません。
声には出しませんでした。出す相手がおりませんでしたので。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
麻は湿ると伸びて、乾くと縮みます。ですから夕方に裁ったものは、その晩のうちに縫い切ってしまわないと、朝には目が浮くのです。ユーリアが継母の話を聞きながら手を止めなかったのは、性格ではなく、麻の都合でした。
次話、櫃は雪の街道で一度だけ濡れます。十年ぶんが、七日目の朝に辺境伯の前で開けられます。
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