第38話 ヴァイス様の手は、器用でございます
翌朝、宿の主人が二階へ上がってこられました。
「奥様。お客様でございます」
「どちら様でしょう」
「組合の、肝煎り様と申されております」
◇
一階の広間へ下りました。窓際の卓に、一人お座りでございます。
立たれて、こちらへ向き直られました。背は高くございません。旦那様より頭ひとつ低うございます。三十八とお聞きしておりましたが、それより若く見えました。
着ておられるのは、灰の一枚でございます。
わたしは、まずその一枚を見ました。毛でございます。夏に毛を着るのは、王都ではめずらしくございません。薄く織った毛は、麻より皺になりません。
縫い目が外から見えません。肩の切り替えのところに線がございません。よく見ますとございます。糸の色が、布とまったく同じでございました。
糸を布から作っておられます。同じ反物の耳のところをほどきます。糸に戻して、それで縫う。手間がかかりますので、めったにいたしません。
◇
「オストマルクの奥様でいらっしゃいますね」
「はい」
「コンラート・ヴァイスと申します」
声は、低くも高くもございませんでした。どちらでもない声は、聞いていて疲れません。長く話すことに慣れておられる方の声でございます。
「お座りください」
勧められました。この方の宿ではございません。わたしの泊まっている宿でございます。
わたしは、座りました。
「明日の検分の前に、一度お目にかかっておきたく存じました」
「はい」
「お手紙を二度差し上げましたが、お返事をいただいておりません」
「はい」
「お気に障ることを書きましたでしょうか」
わたしは、答えませんでした。答えないというのは、この十年、わたしがしてきたことでございます。
ヴァイス様は、それを待たれませんでした。待たずに、次を話されます。
「見本は、お届きになりましたか」
「届きました」
「ご覧いただけましたか」
「見ました」
「いかがでございましたか」
◇
「よい仕事でございました」
これは、本当のことでございます。嘘を申しますと、この方は分かります。
ヴァイス様は、少し目を伏せられました。
「恐れ入ります」
◇
それから、卓の上に布を一枚、出されました。小さいものでございます。手のひらより少し大きいくらい。麻でございます。
それと、針と、糸。
「奥様。恐れ入りますが、少しお時間をいただけますか」
「はい」
「口で申し上げますと、言い訳のように聞こえますので」
◇
ヴァイス様は、布を二つに折られました。折って、端を合わせられます。指で押さえられました。
針を取られました。
速うございました。速いだけではございません。目が揃っております。一尺のあいだに二百二十。数えなくても分かります。運びの間隔が同じでございました。
端まで縫って、返されました。
返しが三度。
糸を切って、結ばれました。
結び目は、左でございます。
それから、縫い代を割られました。折り伏せにされます。二度折って、内側を留めます。留めるときは表へ針が抜けません。抜けますと表に点が出ます。
抜けておりませんでした。
全部で、十を数えるほどでございます。ヴァイス様は布を卓の上へ置かれました。こちらへ向けて、裏を上にして。
◇
「これが、四十七番でございます」
十を数えるあいだに、この方は四つとも合わせられました。合わせるだけであれば、写せば済みます。写すには、まず読まなければなりません。読むには、解くか、透かすかでございます。
どちらにしても、一度は手を動かしておられます。それから、覚えておられます。覚えたものを、十を数えるあいだに出せるようになるまでには、何度も縫っておられるはずでございます。
一度や二度ではございません。手が勝手に動く速さでございました。
わたしは、その布を見ておりました。脇の下から三寸。返しは三度。糸は本体より一段細く。結び目は左。
母がわたしに教えた四つでございます。母が、自分で決めた四つでございます。
◇
「奥様。わたくしは、この形を盗んでおりません」
「はい」
「盗んだのは前の親方でございます。二十四年前と二十三年前に。わたくしは当時、十四と十五でございました」
「わたくしが肝煎りになりまして、帳を最初から見ました」
「はい」
「三十七件、全部が不備でございます。届け出の名と、帳の名が合っておりません。合っていないものは、本来は取り消しでございます」
「取り消しには、なさらないと」
「いたしません」
「なぜでございます」
「取り消しますと、明日から王都の縫い手はその三十七の形を使えなくなります」
ヴァイス様は、卓の上の布を指されました。
「四十七番は、去年取り消されました。取り消されて、どうなったかご存じですか」
「……」
「王都じゅうの縫い手が、この形を使っております。誰の登録でもございませんので。使えば、誰も咎められません」
「それの、何がいけないのでしょう」
「いけなくはございません。ただ、次に届け出をした者のものになります」
わたしは、そこで手を膝の上へ置きました。置いてから、それが震えていないことを確かめます。
「では、あなたが届け出をなさればよろしいのでは」
「いたしません」
「なぜ」
「わたくしの形ではございませんので」
ヴァイス様は、そこで初めて、こちらをまっすぐご覧になりました。
「ですから、組合の名で載せ直します」
「組合の」
「誰のものでもなく、誰でも使える形として残します。組合の帳に載っている限り、次の誰かのものにはなりません」
◇
わたしは、その言い方を、しばらく置きました。置いて、考えました。
この方のおっしゃっていることには、穴がございません。取り消せば誰かのものになる。組合の名で残せば誰のものにもならない。
筋が通っております。
筋の通ったものを、わたしは去年も見ております。ブルーメ様のお持ちになった書付でございます。あれも筋が通っておりました。登録意匠は組合の帳に載っている。載っているものを勝手に使うことはできない。どこにも穴がございませんでした。
あのときは、布のほうに穴がございました。裏が写せておりませんでしたので。
今度は、布に穴がございません。
「ひとつだけ、お聞きしてよろしいですか」
「どうぞ」
「その三十七の形は、いま、誰のものでございますか」
「どなたのものでもございません」
「では、二十四年前は」
ヴァイス様は、答えられませんでした。答えられなかったのではございません。
答えが、こちらの言いたいことと同じであると、分かっておられたのだと思います。
「……お作りになった方のものでございます」
「その方々のお名前は、帳のどこかにございますか」
「ございません」
「載せ直しても、載りませんか」
「載りません」
「不備を正すと、お書きになっておられました」
「はい」
「合っていない名を、合っている名に直すことは、なさらないのでございますか」
ヴァイス様は、卓の上の布へ手を伸ばされました。取り上げて畳まれます。畳み方が丁寧でございました。
「奥様。二十四年前に届け出をした方は、もうおられません」
「おられます」
◇
わたしは、そう申しました。申してから、言い過ぎたと思いました。
明日、卓の前に立てるのは、いまのところ二人でございます。母を除いて、残りは十一人でございます。四人は姓がなく、三人はお返事がなく、四人は行方が分かりません。
二人でございます。
◇
ヴァイス様は、布を懐へお入れになりました。立たれました。椅子を卓の下へ戻されます。
「奥様」
「はい」
「四十七番につきましては、いまもお勧め申し上げます」
◇
「あなたのお名前で、お届け出になればよろしい」
「明日、そう仰っていただければ、その場で通します。書式はこちらで整えます」
ヴァイス様は、一度お辞儀をされました。
「お母上の形が、お母上の娘御のものになります。それで筋が通らないと申す者は、王都に一人もおりません」
布は、裏に本当のことが書いてあります。
同じ反物の耳をほどいて糸に戻し、その糸で縫うというやり方がございます。糸の色が布とまったく同じになりますので、縫い目が外から見えません。手間がかかりますから、めったにいたしません。めったにしないことを普段着でしておられる方は、そこに手間をかけるのが当たり前になっている方でございます。
次話、十四人のうち、卓の前に立てるのは何人でございましょうか。
ブックマークと評価をいただけますと、この工房が続きます。




