第35話 イルゼ様が、いらっしゃいました
わたしがシュタイン男爵家へ出しました手紙は、七行でございました。
お宅に、七十六になられる縫い手の方がおいでではございませんか。おいででしたら、二十九年前の王都のことをお尋ねしたく存じます。書きましたのは、それだけでございます。
書きますのに、三日かかりました。三日かかりましたのは、書くことが決まらなかったからではございません。差出人の名で止まっておりました。どう書くかでございます。
ユーリア・フォン・オストマルク。
その家の娘御が一年でお戻りになった、そのあとに入った者の名でございます。
◇
返事は、二十二日目にまいりました。封を開けますと、便箋ではなく、一行の走り書きでございます。
<まいります>
差出人の名は、イルゼ・フォン・シュタイン。
◇
着かれたのは、それから十一日後でございます。馬車は門の前で止まりました。坂は上まで馬車が入ります。冬でなければでございます。
降りてこられたのは、背の高い方でございました。三十を少し過ぎておられます。旅の外套は上等でございますが、袖口が擦れておりました。擦れたところに当て布が入っております。裏から当ててございました。
わたしは門のところで、お待ちしておりました。バルトが後ろにおられます。バルトは、この方を見送った側の人でございます。
イルゼ様は、門をくぐる前に一度、屋敷の屋根をご覧になりました。それから、こちらへ向き直られます。
「イルゼ・フォン・シュタインでございます」
「ユーリア・フォン・オストマルクでございます」
広間へお通しいたしました。卓は、わたしがいつも使う卓でございます。この方がここにおられた頃、どの椅子にお座りだったのかは存じません。
イルゼ様は、いちばん戸口に近い椅子に腰を下ろされました。
「バルト」
「はい」
「まだ、日数を数えておいでですか」
「数えております」
「そう」
湯をお出ししました。イルゼ様は湯呑みを両手で持たれます。それから卓の上をご覧になりました。
卓の上には、十四枚の写しが並べてございます。名前を書いたほうでございます。
「この四枚目でございます」
イルゼ様は、一枚を指されました。
「これが、うちのグレータでございます。七十六になります。生きております」
◇
グレータ。女中頭のグレーテとは、一字違いでございます。
「シュタインの家で、四十年縫っております。今は目が悪くなりまして縫いません。口だけは達者でございます」
「その方は、この紙のことを」
「覚えております」
イルゼ様は、湯呑みを置かれました。
「わたくしがこの手紙を読んで聞かせましたら、三十年ぶりに大声を出しました」
わたしは、その場で椅子から立ちそうになりました。立ちませんでした。立って何をするというものでもございません。
「イルゼ様。恐れ入りますが、そのグレータ様は、王都の卓の前まで出てこられますか」
「出ます」
「七十六でございます」
「出ると申しております。馬車に乗せて連れてまいります」
イルゼ様は、そこで一度息を置かれました。それから、こうおっしゃいます。
「奥様。わたくしは、それをお伝えするために来たのではございません」
「はい」
「手紙で足ります。三行で済みます」
イルゼ様は、卓の上をご覧になっておられました。十四枚の写しではございません。その脇に置いてある、古い褥布のほうでございます。
解いて、また縫い直したほうでございました。
「それは、わたくしの支度でございますね」
わたしは、隠しませんでした。
「はい」
「解かれましたか」
「解きました。中に、この十四枚が入っておりました」
「そう」
「無断でございました。お詫びいたします」
イルゼ様は、首を振られました。
「詫びていただくことではございません」
「けれど」
「奥様。あれは、わたくしの支度ではございません」
◇
「二十四年前、うちの家は傾いておりました。傾いたところへ、辺境伯家からのお話がまいりました」
イルゼ様の声は、低うございました。語尾は落ちません。この方も、人前で話すことをしてこられた方でございます。
「支度は二十八点、揃えなければなりません。うちには縫える手がグレータ一人でございました。一人で二十八点は一年かかります。一年は待っていただけませんでした」
「では」
「買いました。王都の古着商から」
「グレータは、反対いたしました」
「はい」
「買い集めの支度は、格が揃わない。三点並べれば分かる。恥をかくのは娘だと、そう申しました」
イルゼ様は、湯呑みの縁を指でなぞっておられます。
「父は、数が揃えばよいと申しました」
「揃えて、こちらへ持ってまいりました」
「はい」
「一年で、戻されました」
◇
わたしは、何も申しませんでした。申し上げることがございません。この方が戻された理由は、支度ではございません。冬に体を壊されて、ご実家が引き取られたのでございます。
けれど、この方の中では、その二つは繋がっているのだと思いました。
「箱は、置いてまいりました」
「はい」
「持って帰るものではございませんでしたので」
◇
イルゼ様は、褥布へ手を伸ばされました。持ち上げて、裏を返されます。
この屋敷の方の癖でございます。一年おられただけで、この方にも移っておりました。
「奥様。この十四枚を挟んでおりましたのは、この一枚でございますね」
「はい」
「では、これは、古着商から来たものでございます」
「その古着商の名を、覚えておいでですか」
「覚えております」
イルゼ様は、褥布を卓へ戻されました。
「二十四年前に、うちが支度を買ったところでございます。王都の、西の門のところの店でございます。今も、ございます」
「その店に、うちのグレータが一度、通っております」
「通う」
「買った支度の中に、格の違うものが混ざっておりました。褥布が二組。ほかの二十六点より明らかに良いものでございます」
イルゼ様は、こちらをご覧になりました。
「グレータは、それがどこから出たものかを聞きに行きました。良い仕事は、出どころを知りたくなるものでございますので」
「……聞けましたか」
「聞けました。伯爵家から、まとめて出たものだと」
◇
「どちらの、伯爵家でございますか」
イルゼ様は、少し間を置かれました。言いにくいことをおっしゃるときの間ではございません。
わたしがもう知っていることを、口に出してよいかどうかを測っておられる間でございました。
「ヴァルトハイム」
◇
母の支度は、荷車二台で中庭から出ていきました。わたしは十一でございました。継母が指図しておられます。
出ていったものは、西の門のところの店へ運ばれました。番号札を付けられました。二年ののちに、シュタイン男爵家が買われました。
買われたものは、支度箱に詰められて、この辺境へ運ばれました。運ばれた箱は、一年で置いていかれました。蔵の奥の壁のところに十年ございました。
◇
わたしがこの屋敷へ着きましたのは、一年半前でございます。着いて、屋敷じゅうの布を見て回りました。蔵の櫃を七つ開けました。奥の壁の箱を三つ開けました。
あのとき、わたしはこの褥布の底に手を入れております。入れて、母の縫い取りを見つけて、それで手を止めました。
芯地には、触っておりませんでした。
◇
その晩、イルゼ様には二階の東の部屋にお泊まりいただきました。冬のあいだ、昼に半刻だけ扉を開けていた部屋でございます。空気の通らない部屋は布が傷みますので。
わたしが工房の灯りを落としましたころに、バルトが廊下からお声をかけられました。
「奥様。王都から、使いが着きました」
「今時分に」
「馬を替えて来たと申しております。書付を一通、お預かりいたしました」
◇
封蝋は、組合の印ではございませんでした。王都商工裁定所の印でございます。
去年の春、この屋敷の広間へ検分にお見えになった立会の方でございます。差出人の名を、わたしは覚えておりました。
ホルスト。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
買い集めの支度は、数が揃っていても格が揃いません。逆に申しますと、格の揃わない中に一点だけ良いものが混ざっていることがございます。混ざったものは、必ずどこかから来ております。良い仕事を見た者は、出どころを知りたくなります。知りたくなって歩いた足跡が、二十四年経って、こちらの卓の上に戻ってまいりました。
次話、裁定所からの召喚でございます。一年半ぶりに、西の門をくぐります。




