第34話 七十八のローゼ様は、まだ縫っておられました
バルトが名前をご存じでしたのは、荷のためでございました。
この屋敷の荷は、麓の宿場を通ります。塩も、油も、糸も、王都から来るものは全部そこで積み替えます。
積み替えの控えを書く役の家が、宿場に一軒ございます。その家の後家が、ローゼ様でございました。
「七十八でいらっしゃいます。荷の帳を、五十年お書きになっておられます」
「縫い手ではないのですか」
「縫っておられます。宿場の者は、みなあの方に頼みます。わたくしの外套も、二度直していただきました」
◇
わたしは翌朝、坂を下りました。
ヨハンが荷馬車を出します。空の荷馬車でございます。帰りに油を積んでまいります。
道はまだ泥でございました。泥のところは、車輪が沈む前に降りて歩きます。沈んでからでは押しても出ません。
道の脇には、雪解けの水が筋になって流れております。その筋が坂を横切るところは、下が抜けておりますので、荷馬車の車輪をそこへ入れてはなりません。ヨハンは筋のたびに手綱を持ち替えて、車輪の通る位置を半尺ずらしておりました。
わたしは、この道を一年半前に、逆から上ってまいりました。あのときは支度箱を十ほど積んだ橇でございましたので、水の筋も泥も、雪の下に隠れておりました。三度降りて、宿場まで丸一日でございます。
◇
宿場は、街道の分かれ目にございます。
家が十七軒。宿が二つ。荷の置き場が三つ。
置き場のいちばん奥の家の戸口に、板が下げてございました。荷の番号が墨で書いてあって、下から順に消してございます。消し方が、線一本でございました。塗り潰しておりません。
消しても読めるように消してございます。
戸を叩きますと、返事の前に開きました。
小柄な方でございます。背は曲がっておられません。七十八には見えませんでした。
手だけが年でございます。指の関節が太くなって、爪が厚うございます。
「オストマルクのお屋敷から」
「はい」
「荷は明後日でございますよ。早すぎます」
「荷ではございません」
ローゼ様は、わたしの顔をご覧になりました。それから、わたしの手をご覧になります。
人の手を見る方でございました。
「お入りなさい」
◇
土間の奥が仕事場でございました。
窓が二つ。両方とも南でございます。窓の下に卓が一つ。卓の上に、縫いかけが三枚。
棚に、荷の帳面が並んでございます。背に年が書いてございました。いちばん古いのが、五十一年前でございます。
わたしは、その並びをしばらく見ておりました。五十一冊。一年に一冊。抜けがございません。
背の字は、古いものほど大きうございます。年が経つにつれて小そうなって、いちばん新しい一冊は、指の爪ほどの字でございました。手が縮んだのではなく、書き慣れて、要る大きさだけを書くようになられたのだと思います。
棚の高さは、卓に座ったまま手の届くところで終わっておりました。上の段は空でございます。五十一冊が、いつでも手の届くところに置いてございます。
◇
「ローゼ様。お見せしたいものがございます」
わたしは包みを解いて、写しを一枚だけ出しました。十四枚のうち、七枚目でございます。名前は書かずに、形だけを写したものでございます。
卓へ置きました。
ローゼ様は、それをご覧になりました。顔を寄せられません。近くから見る必要がない方でございます。
しばらく見ておられて、それから、こうおっしゃいました。
「これは、褥布の芯でございますね」
わたしは何も申しませんでした。この写しには、褥布とは書いてございません。形と、寸法だけでございます。
「四隅から三寸のところへ、四つ入れます。四つ入れますと、芯が寄りません。三つですと、洗ったときに一方へ寄って、そこだけ厚くなります」
「……はい」
「五つは要りません。五つ目を入れますと、真ん中が硬くなって、寝たときに背中に当たります」
◇
「これを考えましたのは、わたくしでございます」
ローゼ様は、そうおっしゃいました。自慢しておられません。荷の帳に番号を書くのと同じ声でございました。
「二十九年前でございます。届け出を出しました。通りませんでした」
◇
わたしは、二枚目を出しました。控えそのものではございません。写しでございます。日付は入れておりません。
けれど、こちらには名前が書いてございます。
ローゼ。
「これは」
「控えの写しでございます。元の紙は、わたしの手元にございます」
「……」
「二十九年前に、あなたがお書きになったものでございます」
ローゼ様は、椅子に座られました。座ってから、手を卓の上に置かれます。指の関節の太い手でございました。
その手が、少し震えております。
「燃やしたと聞いておりました」
「燃やされておりません」
「誰が」
「わたしの母でございます。アニェスと申します」
ローゼ様は、顔を上げられました。それから、初めて目を細められます。近くを見るための細め方ではございません。遠くを見るときの細め方でございました。
「アニェスの、娘御でございますか」
「はい」
「……そう。手が似ておいでです」
◇
その日、わたしは宿場に泊まりました。ローゼ様のお話は、長うございません。
二十九年前、届け出を出した。通らなかった。理由は聞かされなかった。半年後、同じ形が工房の登録に載った。載ったことを知ったのは、載ってから三年後でございます。
抗議はなさいませんでした。
「どこへ申せばよいのか、分かりませんでしたので」
申す先がない、というのは、こういうことでございます。届け出を受けるのは組合でございます。通らなかったと言うのも組合でございます。半年後に同じ形を載せたのも、組合でございます。三つとも同じところでございますので、どこへ申しても、同じ卓の同じ人のところへ戻ります。
裁定所というものがあるのは、わたしも去年まで知りませんでした。知りましたのは、あちらから使いが来たからでございます。
こちらから行けるところだと、二十九年前のこの方はご存じなかったのでございましょう。ご存じなかったのは、この方の落ち度ではございません。
その次の年に、この宿場の荷馬車屋へ嫁がれました。王都を出るときに、縫い道具だけ持って出られたそうでございます。
「縫うのはやめませんでした」
「はい」
「やめる理由が、ございませんので。取られたのは紙のほうでございます。手は取られておりません」
◇
卓の上の縫いかけを、三枚とも見せていただきました。
一枚は宿の掛布の裂けを繕ったもので、当て布が裏から入っております。一枚は子の外套の肩で、詰めてございました。裾ではなく肩でございます。
三枚目が、褥布でございました。
四隅から三寸のところに、留めが四つ入っております。二十九年前に考えられたものを、この方はいまも、この宿場で縫っておられます。
届け出は通っておりません。名前もどこにもございません。
それでも、宿場の褥布は五十年、この形でございます。
わたしは、その言葉を書き留めませんでした。書き留めるようなことではございません。この方は当たり前のことをおっしゃっただけでございます。
◇
朝、油を積む前に、ローゼ様が戸口へ出てこられました。紙を一枚、お持ちでございます。
「奥様。この十四枚のうち、ほかにご存じの名は」
「ございません」
「では、ひとつ」
ローゼ様は、紙をわたしの手へ置かれました。名前が二つ書いてございます。
「わたくしと同じ年に入りました者が、二人おります。一人は十四年前に亡くなりました。もう一人は、生きておられれば七十六でございます」
「どちらに」
「王都でございます。ただ」
◇
「その方は、二十四年前に、シュタインの男爵家へ入られました」
わたしは、紙から顔を上げました。
「シュタイン」
「ご存じで」
「……存じております」
◇
シュタイン男爵家。イルゼ様のご実家でございます。
辺境伯家へ嫁がれて、一年で引き戻された、二人目の先妻の。
あの支度箱の。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
褥布の芯は、四隅から三寸のところへ四つ留めます。三つですと洗ったときに一方へ寄って、そこだけ厚くなります。五つ入れますと真ん中が硬くなって、背中に当たります。四つでなければならない理由は、寝てみないと分かりません。考えた人は、必ず一度は寝ております。
次話、イルゼ様が、いらっしゃいました。
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