第31話 手ぶらで、坂を降りていかれました
雪が止んでから、道が開くまで、五十二日ございました。そのあいだに、わたしは十四枚を写しました。
写しと申しましても、字を書き取るのではございません。形が要ります。薄い紙を上に置いて、灯りを下から当てて、線をなぞります。なぞる線が太くなりますと、返しの点の位置がずれます。ずれれば別の形になります。ですから、いちばん細い筆で、一本ずつ。
一枚に半日かかりました。十四枚で七日でございます。
リンデ様は、その七日のあいだ、卓の反対の端におられました。三十九人の帳面の写しは、とうに終わっております。終わってからは、こちらの手元をご覧になるだけでございました。
一度だけ、口を出されました。
「奥様。日付は、写さないほうがよろしゅうございます」
「なぜでございます」
「写しに日付が入っておりますと、写しのほうが本物のように見えます。形だけをお写しなさいませ。日付は、元の紙にだけございますほうが強うございます」
◇
二月の終わりに、屋根の雪が落ち始めました。
落ちるときは、まず音が変わります。夜のうちに、屋根の上で何かがずれる音がいたします。翌日の昼になります。日の当たる面から順に落ちます。落ちたところの下は歩けません。二度目が来ますので。
バルトが縄を張って回っておられました。
「百六日目でございます」
「バルト」
「あと三十四で、道が開きます」
◇
三月に入って、南の窓の板を外しました。外すのは打つより早うございます。半日で終わります。
挟んでいた羊毛を取り出しました。広げて干します。窓枠は黒くなっておりません。今年の羊毛は、来年も使えます。
光が入りますと、屋敷の中の色が変わります。冬のあいだ見ていたものが、全部くすんで見えるようになります。
工房も明るくなりました。明るくなって、初めて分かることがございます。寝かせ糸の十九枷のうち、三枷が変色しておりました。棚の北の端に置いたものでございます。壁から拳ひとつ離しておりましたが、足りませんでした。
わたしは三枷を下ろして、別に置きました。使えないわけではございません。染めに回せば分かりません。
けれど、白いものには使えません。
道が開きますと、まず人が来ます。
冬のあいだに壊れたものを抱えて来られます。掛布の裂け。外套の肩。子の育った丈。冬に壊れたものは冬のうちには直せません。糸が凍りますので、針が通りません。
去年は十一人でございました。今年は十七人来られると、グレーテが申しました。数え方をお聞きしましたら、冬のあいだに村で生まれた子の数から出しておられます。
生まれれば、産着が要ります。産着が要れば、上の子の分が下りてまいります。下りたものは、丈を詰めます。
わたしは寝かせ糸の白い十六枷を、そちらへ回すことにいたしました。
◇
道が開く三日前に、リンデ様が工房へ来られました。いつもの椅子ではなく、戸口のところで止まっておられます。冬のあいだ、一度も立ち止まられなかった場所でございます。
「奥様。出立の支度をいたしました」
「はい」
「四月の初めには、王都へ着きます」
わたしは、卓の上の十四枚を見ました。包んで、紐を掛けて、置いてございます。母が置いたのと同じ形で。
この方は、この五十二日のあいだ、いつでもこれを持ち出せました。工房に鍵はございません。わたしは夜、ここを離れます。屋敷の者は誰もこの方を疑っておりません。バルトが日数を数えておられただけでございます。
持ち出して燃やせば、それで終わりでございました。
「リンデ様」
「はい」
「お聞きしてよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたは、これを探しに来られました」
「はい」
「探して、どうなさるおつもりでしたか」
リンデ様は、戸口の敷居を見ておられました。しばらくして、こうおっしゃいました。
「ございますかどうかを、知りたかったのでございます」
「それだけで」
「それだけでございます」
◇
「二十三年前、あの十四枚を、あの人へ渡したのはわたくしでございます」
わたしは、針を持っておりませんでした。持っていればよかったと思いました。
「届け出は、通りませんでした。通らなかった控えは、帳付けが集めて、燃やします。決まりでございます」
「燃やされなかった」
「燃やしませんでした。集めて、束にして、あの人に渡しました。持って出なさいと申しました」
「なぜでございます」
「……」
「リンデ様」
「分かりません」
リンデ様は、初めてそうおっしゃいました。
「あのときは、何か考えがあったのだと思います。二十三年経ちますと、考えのほうは消えます。したことだけが残ります」
◇
したことだけが残ります。
その言い方は、この方が四十七番の帳をお書きになったときと、同じでございました。書きました、と。渡しました、と。どちらも、この方が手でなさったことでございます。どちらも、理由はおっしゃいません。
「奥様。わたくしは、あの人がそれを持ったまま亡くなったと思っておりました」
「はい」
「持ったまま亡くなれば、あの十四枚は、どこかで反故になっております。それならそれでよいと、思っておりました」
「思っておられて、なぜ探しにおいでになったのです」
「春に、帳が開きますので」
「はい」
「開いたときに、あるのか、ないのか。ないのであれば、わたくしは何も申しません。三十七件ぶんの手が並んで、それで終わりでございます」
リンデ様は、そこで顔を上げられました。
「あるのでしたら、わたくしは、それを知った上で王都へ戻ります」
◇
わたしは、卓の上の包みへ手を伸ばしませんでした。差し出しませんでした。持っていってくださいとは申しません。来てくださいとも申しませんでした。
申しますと、この方の返事は、わたしへの返事になります。
◇
道が開いた朝、リンデ様は坂の上に立っておられました。荷は、来られたときと同じでございます。背嚢がひとつ。外套は同じ焦茶の綾織で、肘の当て布は表から当てたままでございました。
わたしはそれを、冬のあいだに直して差し上げませんでした。直しましょうかと、一度も申しませんでした。
「奥様。お世話になりました」
「お気をつけて」
「三十九人の帳面は、四冊目の三十九行目まで写してございます。あとは足していかれませば」
「はい」
◇
リンデ様は、坂を降りていかれました。下りは難しゅうございます。吹き溜まりが解けたところは、泥になっております。歩幅の狭い方は、そこで足を取られます。
三度、止まっておられました。止まって、腰の後ろへ手を回されます。それからまた歩き出されます。
手ぶらでございました。
◇
工房へ戻りますと、卓の上の包みは、そのままでございました。紐は掛けたまま。二か所。結んでございません。
わたしはそれを母の道具箱の底へ入れました。
寸法が合いました。合うように作ってある空きでございますので、当たり前でございます。当たり前のものが当たり前に収まるのを見たのは、十一年ぶりでございました。
底板を戻して、蓋を閉めました。留め金の爪は、まだ曲がったままでございます。直そうと思えば直ります。鍛冶屋のドロテアさんに預ければ、半日でございましょう。
わたしは去年から、預けておりません。
◇
その日から数えて十一日目に、王都から一通まいりました。
わたし宛でございます。封蝋がございました。実家からの手紙には、封蝋がついたことがございません。
押してあるのは、糸巻きと針を組み合わせた印でございます。王都縫い手組合の印でございました。
差出人の名は、コンラート・ヴァイス。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
形を写すときは、いちばん細い筆で一本ずつなぞります。線が太くなると、返しの点の位置がずれます。ずれれば別の形になります。それから、写しに日付は入れません。写しに日付があると、写しのほうが本物のように見えるからです。写しは形だけ。日付は、元の紙にだけあるほうが強うございます。
次話、ヴァイス様は、洗い直すとは書いておられませんでした。正しく登録し直す、と書いておられました。
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