第30話 芯地の中に、紙が縫い込んでございました
褥布の縫い代は、片側だけ返しが三度でございました。三方は二度でございます。二度で足ります。
一方だけ三度。しかも、その一方は、あとから縫われております。糸の交わりで分かります。上に来ているほうが、あとでございますので。
母は、この褥布を一度仕上げたあとで、一方だけ解いて、何かを入れて、縫い直しております。
◇
解くのは、その一方でございます。わたしは糸切り鋏の先を、返しの外側の糸へ入れました。
外側から入れますと、内側の糸が残ります。残った糸を引けば、縫い目が一列に抜けます。布に穴が残りません。
鋏は寝かせて入れます。立てて入れますと、糸の下の布まで切ります。刃の背を布へつけて、糸だけを刃の腹へ乗せる。乗ったところで、押します。引きません。
三針ぶん外したところで、糸の端が出ました。端を目打ちの先へ掛けて、ゆっくり引きます。
抜きました。
一列が、抵抗なく抜けてまいります。途中で引っかかりません。引っかかるのは、返しの回数が揃っていないところでございます。揃っている縫い目は、最初から最後まで同じ力で抜けます。
一尺のあいだに、二百四十ほどでございます。母の目でございます。わたしの目より、細かうございました。
◇
口が開きました。
芯地は、二枚重ねてございました。薄い麻を二枚。そのあいだに、巻いたものが挟んでございます。
二枚にしてあるのは、隠すためではないと思いました。一枚の芯地に物を挟みますと、そこだけ表へ形が出ます。使ううちに、押されて跡が残ります。二枚のあいだへ入れて、二枚をそれぞれ表布と裏布へ留めておきますと、挟んだものが動きません。動かなければ、跡が出ません。
十一年、この褥布は寝台の上にございました。人が上に寝ておりました。それでも、表には何も出ておりませんでした。
傷めない入れ方でございます。隠す入れ方ではございません。
わたしは、両手を布の中へ入れました。指の腹で、紙の端に触れました。
冷たくございません。十一年、布のあいだにおりましたので、布の温みでございます。
引き出しました。
巻いた紙の束でございます。長さ一尺。幅三寸。
外側を、一枚の麻紙で包んで、紐で二か所を留めてございます。紐は結んでございません。掛けてあるだけでございます。
解くつもりの者が、解きやすいように。
◇
卓の上へ置きました。旦那様が灯りを二つ、両側へ寄せられました。
リンデ様は椅子から立っておられます。立ったまま、卓から一歩下がったところで止まっておられました。近づいてこられません。
わたしは紐を外して、包みを開きました。
◇
十四枚ございました。
一枚ずつ、麻紙でございます。折らずに巻いてございましたので、皺は一本もございません。
どの紙も、書いてあることが同じ形でございました。上のほうに、形。縫い取りの図でございます。糸の運びが線で描いてあって、返しの位置に点が打ってございます。
その下に、寸法。その下に、日付。いちばん下に、名前。
字が、十四枚とも違いました。太い字。細い字。右上がり。角の丸い字。書き慣れていない字も一枚ございます。
控えは、届け出る本人が書くものでございます。十四人が、それぞれご自分で書かれたものでございます。
紙も、揃っておりません。九枚は同じ麻紙でございます。工房で使うものでございましょう。三枚は薄く、透かすと簀の目が粗うございます。安いほうの紙でございます。二枚は、裏に別の字の跡がございました。一度何かを書いた紙を、洗って使っておられます。
紙を洗って使うのは、紙が買えない者のすることでございます。
形の図は、どれも丁寧でございました。紙がどうであれ、図だけは丁寧でございます。
わたしは、名前を上から読んでいきました。修業帳の余白から書き写した十四の名でございます。
同じでございました。順は違いますが、十四とも合っております。
◇
八枚目に、母の名がございました。
アニェス。
姓はございません。工房におりました頃は、姓を書かなかったのでしょう。
形は、わたしの知っている形でございます。脇の下から三寸のところへ入れる、あの形。返しの点が三つ。糸の線が本体より細く描いてございます。結び目の印が、左に打ってございました。
日付は、二十四年前の春でございます。
母が工房を出ましたのは、二十三年前でございます。その一年前に、母は控えを作っております。
届け出るつもりだったのでございます。
◇
わたしは十四枚を、日付の順に並べ替えました。いちばん古いものが二十九年前。いちばん新しいものが二十三年前でございます。
六年のあいだに、十四枚。
そして、そのうちの十一枚が、二十四年前と二十三年前の二年に固まっておりました。
母の修業帳の、書いていない年でございます。
◇
「リンデ様」
振り向きました。リンデ様は、まだ一歩下がったところに立っておられます。
両手を膝の前で重ねて、卓の上をご覧になっておられました。近くまで顔を寄せられません。この距離では、字は読めないはずでございます。
読んでおられないのだと思いました。数えておられます。
「十四枚、ございます」
「……はい」
「日付が入っております」
「……はい」
リンデ様が、初めて一歩前へ出られました。卓の縁に手をつかれて、顔を紙のところまで下げられます。八枚目でございました。
しばらくそのままでおられました。それから、こうおっしゃいました。
「奥様。これは、証拠になりません」
わたしは、聞き違えたのだと思いました。
「日付がございます」
「ございます」
「四十七番の登録より、十三年前でございます」
「そうでございます」
「では」
「奥様」
リンデ様は顔を上げられました。
「この紙を、いつ書いたか。それを言えるのは、書いた者だけでございます」
控えは、届け出る側が自分で作るものでございます。誰も見ておりません。誰も判を押しません。誰も日付を確かめません。
紙と筆さえあれば、今日でも書けます。今日書いて、二十四年前の日付を入れることができます。
帳は違います。帳は組合が持っております。書いたものは消せません。順に並んでおります。
「片方は、誰でも作れるものでございます。もう片方は、組合が持っている帳でございます」
リンデ様は、八枚目を指されました。指はお触れになりません。
「並べれば、帳のほうが勝ちます」
◇
わたしは、十四枚を見ておりました。十四人が、それぞれの手で書いた紙でございます。
書き慣れていない字の一枚は、線が震えております。形の図の丸いところが、途中で一度切れております。息が続かなかったのでございましょう。
これを書いたとき、その方は、届け出るつもりでおられました。届け出れば、自分の名前で登録されると思っておられました。
届け出は、通りませんでした。通らなかったから、控えが残っております。
母は、これを持って工房を出ました。十四人ぶんを、一枚も欠かさずに。
それを自分の支度の褥布へ縫い込んで、ヴァルトハイムへ持って入りました。それから十二年、屋敷の寝台の上に敷いて、その上で寝ておりました。
わたしが十一のとき、その褥布は荷車で運び出されました。
母は、何も申しませんでした。
あの年、母はもう起き上がれませんでしたので。
◇
旦那様が、灯りをひとつ引かれました。紙が明るすぎると、かえって読めません。この方は、そういうことをご存じでいらっしゃいます。
「ユーリア」
「はい」
「これは、何人ぶんだ」
「十四人でございます」
「そのうち、生きているのは何人だ」
わたしは、答えられませんでした。
いちばん古い日付が二十九年前でございます。二十九年前に届け出ようとした方は、そのとき二十歳でいらしても、今は四十九。三十でいらしたなら、五十九。
母は、十一年前に亡くなっております。
十四人のうちの何人が、まだこの紙のことを覚えておられるのか。覚えておられたとして、何人が、卓の前まで来られるのか。
◇
その晩、雪が止みました。板の内側におりますので、音では分かりません。朝、扉を開けて分かりました。
空が高うございました。
まだ三月ではございません。けれど、雪の止んだ日から、道が開くまでは数えられます。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
縫い代の返しは、三方が二度で、一方だけ三度ということがございます。三度のところは、あとから縫い直したところでございます。糸の交わりで、どちらが先かが分かります。上に来ているほうが、あとです。ですから、一枚の布のどこを誰がいつ触ったかは、解かなくても順番だけは読めます。
次話、リンデ様が、坂を降りていかれます。手ぶらで。




