第29話 旦那様が、箱を三つ運ばせました
蔵の奥の壁のところに、支度箱が三つございます。去年の冬に、一度だけ開けました。
中の布は、どれも崩れておりました。黴と、虫と、湿りでございます。あのとき、崩れた褥布の底に、母と同じ形の縫い取りがございました。わたしがこの一年で見たもののうち、いちばん大きなものでございます。
三つとも、先妻の方々の支度箱でございます。マルグリット様。イルゼ様。アンナ様。
三人とも、生きておられます。呪いで亡くなったのではございません。それぞれのご実家が「面目が立たない」と仰って、引き戻されました。
支度箱だけが、置いていかれました。
◇
男衆が四人で運び上げました。
三つを広間の卓へ並べて、蓋を開けます。開ける前に、しばらく置きました。蔵から出したばかりの箱をすぐ開けますと、外の空気で中が汗をかきます。
蔵は冬のあいだ、外より寒うございます。石の壁が夏の涼しさを溜めたまま冬を越しますので。そこから暖かい広間へ入れますと、箱の木も、中の布も、表に水が出ます。水が出たところへ手を入れて広げますと、そのまま黴の種を植えることになります。
ですから、置きます。蓋を閉めたまま、部屋の隅の、火から遠いところへ。箱の外側が乾いてから開けます。半刻ほど待って、それから開けました。
◇
「よく、覚えておいでで」
わたしはそう申しました。旦那様は、箱の縁を指でなぞっておられます。
「三つある」
「はい」
「おまえが去年、この三つの底を見た。上のものを退けて、いちばん下まで手を入れた」
「はい」
「そのとき、二つは手が浅かった。ひとつは深かった」
わたしは、そこで手を止めました。
覚えておりません。自分がどの箱にどれだけ手を入れたかなど、数えておりませんでした。
「……深かったのは」
「真ん中のだ」
旦那様は、真ん中の箱を指されました。
「深いということは、底までの距離があったということだ。同じ大きさの箱で」
わたしは、旦那様のお顔を見ました。いつもと同じお顔でございます。何かを言い当てたという顔ではございません。
この方は、去年の冬に一度見ただけのわたしの手の入り方を、一年と少し、そのまま持っておられました。覚えようとして覚えられたのではないと思います。物を見るときに裏を返す方でございます。返して、置いて、それだけでございます。
置いたものが、消えない方なのでございましょう。
「旦那様」
「なんだ」
「……いえ」
旦那様は、それ以上お聞きになりませんでした。箱の縁から指を離して、卓の端へ回られます。男衆が三つを並べた並びが、少し斜めでございました。それを両手で押して、真っ直ぐになさいます。
それだけで、卓の上が片づいて見えます。この方は、部屋に入ると必ずどこかを直されます。皿の向き、椅子の間、燭台の高さ。直したことをおっしゃいません。
わたしは去年の冬、この癖を几帳面な方の癖だと思っておりました。
違いました。物のほうを見ておられるだけでございます。
◇
右と左の箱から先に見ました。
右がマルグリット様、左がアンナ様でございます。どちらも中身は崩れております。崩れ方が違いました。
右は黴でございます。緑がかった粉が、畳んだ折り目の山のところに筋になって出ております。湿った空気が折り目の上に溜まった跡でございます。左は虫でございます。穴が小さく、縁が毛羽立っております。羊毛の入ったところだけ食われて、麻は残っております。
二つとも、芯地は薄うございました。指で挟んで端から端まで送りますと、どこも同じ厚みでございます。
◇
真ん中の箱は、イルゼ様のものでございました。
蓋の裏に、紙の札が糊で貼ってございます。字は褪せておりますが、シュタインの家紋が押してございました。イルゼ様はシュタイン男爵家の出でいらっしゃいます。
中身を出しました。上から、卓布が二枚。手巾が十二。肌着が六。褥布が四組。産着が三。それから婚礼衣装。
二十八点でございます。数は揃っておりました。
揃っておりますのに、揃っておりません。布が合っていないのでございます。
卓布は上等な麻でございます。目が詰まって、耳の始末が丁寧でございます。手巾は綿で、これも悪くございません。
褥布が、違います。
四組のうち、二組は新しく仕立てたもの。残りの二組は、明らかに古うございます。古いだけではなく、寸法が二分ずれておりました。
「リンデ様」
「はい」
「これは、一人の手で作ったものではございません」
支度は、一人の縫い手が一式を通して作ります。通して作りますから、寸法の癖が揃います。縫い代の幅が揃います。糸の撚りが揃います。それが「支度の格」というものでございます。
この箱の中身は、揃っておりません。三人か四人の手が混ざっております。しかも、古いものと新しいものが混ざっております。
◇
「買い集めでございますね」
リンデ様が、卓布を持ち上げて顔を寄せられました。
「古着商でございます」
「なぜお分かりに」
「札の跡がございます。角のところに、糸で番号を留めた穴が四つ。留めて、外した跡でございます」
わたしは卓布の角を裏返しました。小さな穴が四つ、四角に並んでおります。糸を通して札を下げていた跡でございます。売り物に付ける番号札でございました。
シュタイン男爵家は、娘の支度を買い集めでこしらえられたのでございます。そういうことは、ございます。家が傾いておりますと、支度に手が回りません。回らないところへ縁談が来ますと、揃えられるところから揃えます。
辺境伯家へ嫁がれる支度でございます。数だけは二十八点、揃えなければなりません。
◇
わたしは、古い二組の褥布を手に取りました。
去年、この底に手を入れて、縫い取りを見つけました。あのとき見たのは、いちばん下の一組の、裏の縫い代でございます。
母の形でございました。
母の支度は、十一年前にヴァルトハイムの中庭から荷車二台で出ていきました。売ったのか譲ったのか、わたしは知りません。出ていったものは、どこかへ流れます。
流れた先で、番号札を付けられて、別の家の娘の支度になります。
◇
「奥様。手を止めておられます」
「……はい」
褥布を広げて、卓へ置きました。二組のうち、上の一組。四つ折りにして重ねてございます。
角を持って、振りました。埃が出ます。それから、音が違いました。
褥布は、表布と裏布のあいだに芯地を入れます。芯地は薄い麻でございます。薄いものを一枚入れて、それで形が保ちます。厚く入れますと、洗ったときに乾きません。乾かないところから黴が来ます。
この褥布の芯地は、厚うございました。
指で挟んで、端から端まで送ります。厚みが、一様ではございません。真ん中のあたりが硬うございました。
長さで申しますと、一尺ほど。幅は三寸ほど。
◇
わたしは、その硬いところを両手で挟んで、しばらく動きませんでした。
旦那様が卓の向こうから見ておられます。リンデ様も見ておられます。近くまで顔を寄せずに、離れたまま。
「奥様」
「はい」
「お解きになりますか」
◇
わたしは糸切り鋏を取りました。
解くのは、縫った者への礼を欠く行いでございます。母がそう申しました。人の縫ったものを解くときは、どこから解けば元へ戻せるかを先に決めてから解きなさい、と。
縫い目には順序がございます。先に通したところと、あとから通したところ。あとから通したほうを先に解けば、布は元の形を覚えたまま残ります。順を違えますと、布が伸びて、二度と同じには戻りません。
どちらが先かは、糸の重なりで分かります。交わるところで上に来ているほうが、あとでございます。わたしは褥布を裏返して、灯りを寄せ、縫い代の交わりを見ました。
返しが三度。糸は本体より一段細く。
結び目が、左でございました。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
支度は、一人の縫い手が一式を通して作ります。通して作るから寸法の癖が揃い、縫い代の幅が揃い、糸の撚りが揃います。これを「支度の格」と申します。逆に申しますと、買い集めた支度は数が揃っていても格が揃いません。中身を三点も並べれば分かります。揃っていないことは、隠せません。
次話、芯地の中に、紙が縫い込んでございました。
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