第27話 十四人、おりました
母の修業帳は、麻紙を綴じたものでございます。表紙はございません。いちばん上の紙がそのまま表紙になっております。角が丸くなって、そこだけ色が濃うございます。何百回も同じところを持った跡でございます。
綴じは麻糸の四つ目綴じ。糸が二か所で切れて、母が結び直しております。結び目は左でございました。厚みは指の一関節ほど。七年ぶんでございます。
◇
工房の卓を片づけて、そこへ置きました。
リンデ様は椅子を引いて、腰を下ろされる前に手を拭かれます。前掛けでではございません。懐から出された布でお拭きになりました。
「灯りを、もうひとつよろしいですか」
「はい」
わたしは灯りを卓の左の斜め下へ置きました。昨日教わったところでございます。リンデ様は表紙の角へ指を当てて、少しのあいだ動かれませんでした。
それから、めくられました。
最初の五枚は、寸法の書き取りでございます。
袖丈。身丈。肩幅。それぞれに二つの数が書いてあります。型紙の寸法と、仕上がりの寸法でございます。二つが合わないことのほうが多うございます。布は縫うと縮みますので。
六枚目から、糸のことになります。
撚りの強さを三段に分けて、それぞれ何に使ったか。麻糸の太さを四段に分けて、どの布に通るか。同じことを何度も書いております。書いて覚える人だったのでございましょう。
わたしは母の仕事を、この帳面でしか知りません。母は屋敷で縫うところを、わたしに見せませんでした。
見せなかったのではなく、見せられなかったのだと、今は分かります。
「奥様」
「はい」
「この余白の字を、お読みになったことは」
リンデ様が指されたのは、七枚目の左の端でございます。寸法の書き取りの脇に、ごく小さな字が添えてございました。わたしは何度もこの帳面を開いておりますが、そこは読み飛ばしております。
人の名でございました。
「借りた相手でございます」
「借りた」
「糸を、でございます。工房では、糸は棚から勝手に取れません。誰から何を借りたかを、自分の帳へ書きます。返した日も書きます」
リンデ様は、次の紙をめくられました。同じところに、別の名がございます。
「これは、直しを見てもらった相手でございます。修業のうちは、縫い上げたものを必ず誰かに見せます。見た者の名を書きます」
「なぜ、名を」
「あとで洗って粗が出たときに、見落とした者にも咎が行きますので」
◇
それから、日が暮れるまでかかりました。
リンデ様が余白を読み、わたしが別の紙へ書き写します。同じ名は一度だけ。
書き写す紙は、寝かせ糸の札の余りを使いました。裏が白うございましたので。灯りの油が一度切れて、注ぎ足しました。注ぐときは芯を先に上げておきます。下げたまま注ぐと、油が芯を越えて溢れます。
◇
六年目のところで、紙が薄くなりました。
厚みではございません。書いてある量でございます。それまでは一枚に十行も十五行も詰まっておりましたのに、そのあたりから三行、二行と減ります。余白の名も消えます。
四枚めくって、また元の詰まり方へ戻りました。
わたしはこの薄いところを、母が忙しかった時期だと思っておりました。書く暇がなかったのだろうと。
「リンデ様。ここは」
「六年目でございますね」
「はい」
リンデ様は、その四枚を順に見ていかれました。近づけて、離して、また近づけて。
「名がございません」
「借りていないということでしょうか」
「借りずに縫うことはできません。糸は棚にしかございませんので」
借りているのに、書いていない。
書かなくなったのは、書けば相手の名が残るからでございます。残ると困ることが、その年に起きたということでございます。
「この年に、何がございましたか」
「……親方が代わりました」
「ブルーメ様に」
「はい。先の親方が亡くなりまして。その年から、届け出の名が工房の名に揃いました」
母は六年目に、名を書くのをやめました。
やめて、七年目に元へ戻しております。四枚ぶん、およそ一年でございます。
その一年のあいだに、母が何をしていたのか。帳面には書いてございません。書いていないということは、書けなかったのか、書く必要がなかったのかのどちらかでございます。母の道具箱の仕切りのときと、同じでございました。
◇
最後の紙まで行って、リンデ様が筆を置かれました。
わたしは、書き写した名を数えました。
◇
十四。
「十四人、おりました」
「はい」
「母を入れて、でしょうか」
「入れて、でございます。お母上を除けば十三人」
わたしは、その紙を灯りのほうへ寄せました。母が十六で入って、七年おりました。そのあいだに糸を貸し、直しを見て、名を書き合った相手が十三人。母を入れて、十四人でございます。
工房というものを、わたしはこれまで、母と親方の二人だけの場所のように思っておりました。母がいて、その形を取った人がいる。二人でございます。
二人ではございませんでした。
「リンデ様」
「はい」
「この十四人の方々は、今どちらに」
「存じません」
リンデ様は、そう答えてから、少し置いてこうおっしゃいました。
「ただ、ひとつだけ申し上げられます」
「はい」
「そのうちの三人は、今も組合の帳に名前がございます。ご自分の届け出で、ご自分の意匠が登録されております」
「三人」
「はい」
「では、残りの十一人は」
リンデ様は、書き写した紙のほうを見ておられました。顔を寄せずに、離れたままご覧になっております。読んでおられるのではございません。数を見ておられるのだと思いました。
「帳に、名前がございません」
「一度も」
「一度もでございます」
◇
縫い手が七年おりました工房で、名を書き合った者が十四人おりました。
そのうち十一人は、組合の帳のどこにも名前が出てまいりません。
名前が出てこないということは、その人たちが縫ったものが、その人たちのものとして登録されなかったということでございます。登録されなかったものが消えるわけではございません。誰かの名前で、どこかの帳に載っております。
わたしは針箱の蓋を開けて、また閉じました。
開ける用がございませんでした。手が勝手に動いております。
母のことだと思っておりました。
十一年前に、母の形が四十七番になった。それがこの一年、わたしの見てきたことの全部でございます。
母のことではございませんでした。
母は、十一人のうちの一人でございます。
◇
その晩、リンデ様は工房を出られる前に、戸口で立ち止まられました。
「奥様。ひとつ、お考えいただきたいことがございます」
「はい」
「届け出をいたしますとき、意匠は帳へ写します。写す前に、届け出る側が控えを作ります。形と、寸法と、その日の日付を書いたものでございます」
「控え」
「はい。届け出が通れば、控えは要りません。捨てます」
リンデ様は敷居の手前で、こちらへ向き直られました。
「通らなかったときのために、作るものでございますので」
わたしは、母の道具箱の底のことを考えておりました。長さ一尺、幅三寸。巻いた紙の束が入る寸法でございます。
「リンデ様」
「はい」
「母は、控えを持って出たのですか」
「存じません」
「けれど、そう思っておいでですね」
リンデ様は答えられませんでした。答えられない代わりに、こうおっしゃいました。
「十四人ぶんの控えを取れる場所におりましたのは、あの工房に一人だけでございます。帳へ写す前の紙を、全部手に取る役でございますので」
◇
帳へ写す前の紙を、全部手に取る役。それは縫い手の役ではございません。
戸口はもう暗く、リンデ様のお顔は見えませんでした。
「リンデ様。それは、あなたのことでございますね」
「おやすみなさいませ、奥様」
布は、裏に本当のことが書いてあります。
修業のうちは、縫い上げたものを必ず誰かに見せます。見た者の名を自分の帳へ書きます。あとで洗って粗が出たときに、見落とした側にも咎が行くからです。一人で仕上げたつもりの一枚にも、必ずもう一人の名前が付いております。工房というのは、そういう数え方をする場所でございました。
次話、探しました。道具箱にも、修業帳にも、工房にも、ございませんでした。
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