第26話 目が悪くなると、帳しか書けません
雪の日の屋敷は、仕事が減ります。
外の用がなくなりますので、みなさま中の仕事へ回られます。銅の鍋を磨く、荒縄を綯う、去年の豆を選る。手はいくらでもございますのに、やることのほうが先に尽きます。
豆を選るのは、卓を三つ並べてやります。中央に山を積んで、両側から手を入れます。虫食いは指で分かります。触れば軽うございます。目で探すより速うございます。
荒縄は男衆の仕事です。工房の隣の土間で綯います。音が一日じゅう続きます。慣れると聞こえなくなります。慣れないうちは、針の運びがその音に合ってしまいます。
三日目に、グレーテがわたしのところへ来られました。
「奥様。あの方に、何かさせておやりなさい」
「リンデ様に」
「じっとしておられます。ああいうのは、こちらが疲れます」
◇
リンデ様は、広間の隅の椅子に座っておられました。朝から動いておられません。膝の上で両手を重ねて、板の打っていない南側の窓のほうを向いておられます。
窓の外を見ておられるのではございませんでした。光のほうを向いておられます。
「リンデ様」
「はい」
「手が空いておりましたら、帳面を写していただけませんか」
「帳面」
「三十九人ぶんの控えでございます。三冊目が終わりましたので、四冊目へ移しております。名前と、日付と、何をお渡ししたか。それだけの帳面でございます」
◇
リンデ様は、それを聞いて立ち上がられました。立ち方が、朝から初めて速うございました。
工房の卓の端に場所をこしらえて、紙と筆をお渡しします。
三冊目の帳面を開いてお渡しすると、リンデ様は顔を紙のところまで下げられました。鼻が紙につくほどでございます。
それから、書き出されました。
速うございました。
速いだけではございません。行が揃っております。わたしの帳面は、書くうちに右下がりになって、最後の行が詰まります。この方の紙は、上から下まで行の間隔が同じでございました。
定規はお使いになりません。
筆の運びも違いました。わたしは一字ごとに紙から筆を離します。この方は離されません。字と字のあいだで穂先が紙をかすめたまま進みます。だから速うございます。
墨の濃さも一定でした。硯へ戻す間隔が決まっております。三行に一度。数えているわけではないのでしょう。手が覚えているのだと思います。
わたしの帳面は、そういうふうにはできておりません。渡した布と日付が書いてあるだけです。字は大きくなったり小さくなったりします。誰にも見せるつもりがございませんでしたので。
◇
「リンデ様。行が」
「三十年、これでございますので」
「揃えるには、どうなさるのです」
「揃えるのではございません。書き出しの位置だけ決めて、あとは同じ息で書きます。息が変わると行が動きます」
◇
午後になって、リンデ様の手が止まりました。
筆を置いて、目のあたりを指の背で押さえておられます。
「休まれますか」
「いえ。日が回りましたので」
「日」
「窓の光が斜めになりますと、紙の白いところと字のところの差が薄くなります。そうなると、書いたばかりのところが読めなくなります」
わたしは灯りをひとつ、卓の左手に置きました。
リンデ様は、その位置を少し動かされました。紙の真上ではなく、紙の左の斜め下から当たるように。
「影が要ります」
「影」
「字は、墨の黒で読むのではございません。墨の載ったところと載っていないところの、段の影で読みます。真上から当てますと影が消えて、かえって読めなくなります」
◇
そういう話を、この方は淀みなくなさいます。
布の話をするときのわたしと、同じでございました。
「リンデ様は、縫われないのですか」
「昔は縫っておりました」
「いつまで」
「四十を過ぎたあたりでございます。手元が合わなくなりまして」
リンデ様は筆を持ち直して、穂先を紙の端で整えられました。
「縫えなくなるのは、指ではございません。目でございます。針の穴が見えているうちは縫えます。見えなくなると、勘で通します。勘で通した目は、揃っているつもりで揃っておりません。それは、洗うと出ます」
「……はい」
「工房では、縫えなくなった者から帳へ回されます。帳は、近くが見えれば書けますので」
◇
その日から、リンデ様は毎朝、卓の端に座られるようになりました。
朝は光がよいので、細かい行を先に片づけられます。昼を回ると大きい字のところへ移られます。日の傾きに合わせて、書く場所のほうを動かしておられました。
バルトは数え続けておられます。四日目。五日目。六日目。
夕方、帳面の写しは十一人ぶんまで進みました。わたしはその横で、寝かせ終えた糸を巻き直しております。
枷から玉へ移すのは、冬にやる仕事です。夏は手の脂が糸へ移ります。冬の手は乾いておりますので、糸が汚れません。
芯には古布を丸めたものを使います。木の芯を使いますと、真ん中が硬いままになって、外側だけ先に減ります。布の芯なら、玉が小さくなるにつれて一緒に潰れます。最後まで同じ張りで解けます。
枷から玉へ移すときは、指を三本かけて、送りながら巻きます。強く巻きますと、また撚りが起きます。
リンデ様が、手を止めてこちらをご覧になりました。
「奥様」
「はい」
「結び目は、左でございますか」
◇
手が止まりました。
縫い取りの結び目のことでございます。脇の下から三寸、返しは三度、糸は本体より一段細く、結び目は左。母がわたしに教えた四つのうちの、最後のひとつでございます。
「なぜ、ご存じなのです」
「アニェスは、右利きでございました。右利きの者が結び目を左へ寄せますのは、指の腹で押さえたときに、結び目が指の下へ入らないようにするためでございます。押さえたまま次を通せますので、速うございます」
「……」
「あれは、あの人が自分で決めた癖でございます。工房で教わったものではございません」
◇
教わったのは七つのときでした。母が亡くなる四年前でございます。台の高さが足りませんので、椅子の上に木箱を置いて、その上に座って教わりました。
母は何も説明いたしません。やって見せて、やらせて、違うところだけ指で叩きました。
三寸の理由は聞いておりません。返しが三度である理由も聞いておりません。
そういうものだと思っておりました。
そういうものではなく、母が一人で決めたものだったのでございます。決めたということは、決める前があったということでございます。決める前の母を、わたしは知りません。
わたしは玉を巻く手を止めておりました。
糸が半端なところで止まりますと、そこに癖がつきます。分かっておりましたのに、動きませんでした。
この方は、母の三十年を四十七番にした手でございます。同じ手が、母の癖の理由を知っております。
母のことを話せる相手が、この世に一人だけ残っておりました。それが、母を売った側の人でございました。
わたしは玉を巻き直しました。癖のついたところは、いったん解いて巻き戻します。ごまかしても、解いたときに出ます。
「リンデ様」
「はい」
「母の癖を、ほかにもご存じですか」
「存じております」
「いくつ」
「……数えたことはございません」
◇
その日の写しは、十九人ぶんまで進みました。
わたしの三冊目は、名前の並びが日付の順でございます。来られた順に書き足していきましたので、同じ方が二度来られますと、離れたところに二度出てまいります。
リンデ様は、それを名前の順に並べ替えて写しておられました。誰にも頼まれていないことでございます。並べ替えますと、二度来られた方が一行に収まります。三十九人が、三十九行になります。
わたしはその紙を、しばらく見ておりました。一年ぶんの仕事が、紙一枚で見渡せるようになっております。
その晩、リンデ様は工房の戸口でもう一度お辞儀をなさって、帰り際に、こうおっしゃいました。
「奥様。お母上の修業帳が、こちらにございますか」
「ございます」
「拝見しても」
わたしは、少し考えました。
道具箱はお見せしないと決めております。けれど、修業帳は別でございます。あれは母が自分の手で書いたものでございます。母の字でございます。
「明日、お出しします」
「ありがとうございます」
リンデ様は、廊下へ出る前に、もう一度こちらをお向きになりました。
「あの帳の、二十三年前より前のところを拝見したいのでございます」
布は、裏に本当のことが書いてあります。
字は墨の黒で読むのではなく、墨の載った段の影で読みます。ですから真上から光を当てると影が消えて、かえって読めません。斜めから当てます。布の織りを見るときも同じで、真上から見ても目は数えられません。窓を背にして、斜めに透かします。見るというのは、光をどこへ置くかの話でございます。
次話、母の修業帳には、書かれていない年がございました。
ブックマークと評価をいただけますと、この工房が続きます。




