第25話 帳付けは、手を汚さないそうでございます
朝、雪は膝の下まで積もっておりました。
板を打った窓は開きませんので、玄関の扉を細く開けて外を見ます。門までの道は消えておりました。坂は、白い斜面がひとつあるだけでございます。
積もり方は、坂の下と上で違います。下は吹き溜まって胸まで来ます。上は風が抜けますので浅うございます。ですから麓から上がるより、上から下りるほうが難しゅうございます。落ちたら止まりません。
扉の内側の敷居には、朝いちばんに乾いた藁を敷きます。開け閉めのたびに雪が入ります。溶けて、木が黒くなりますので。藁は昼に一度替えます。替えたものは竈の脇で乾かします。乾けば、また使います。
バルトが後ろから覗いて、数えられました。
「王都のお客様は、本日で二日目でございます」
「バルト」
「三月の終わりまで、およそ百四十日。長うございますな」
◇
工房の火を入れて、糸の棚を見て回りました。
冬のあいだの仕事は、もう決めてございます。寝かせる糸を増やすこと。グレーテのお母上の織りを、もう少し数にすること。三十九人の帳面を四冊目へ移すこと。
寝かせる糸と申しますのは、撚りをかけたまま巻いて、しばらく置いておくものでございます。撚りたての糸は生きております。生きたまま縫いますと、洗ったときに糸のほうが縮みます。布に皺が寄ります。四十日ほど置くと撚りが落ち着きます。縮まなくなります。
辺境の織り手の技でございます。グレーテに教えていただきました。
枷に巻くときは指を四本かけます。送りながら回します。強く引くと、そこだけ撚りが戻らなくなります。巻き終えたら札をつけます。日付を書きます。四十日を数えるためでございます。数えずに勘で下ろしますと、必ず早うございます。人は待つほうを短く見積もりますので。
棚は火から遠いところにいたします。近いと乾きすぎて、糸が脆くなります。かといって北の壁につけますと、今度は湿ります。壁から拳ひとつ離して、板を渡した上に置きます。
巻き終えた枷を棚へ上げましたところで、後ろに人が立っておられました。
「よろしゅうございますか」
◇
リンデ様は、戸口のところで止まっておられました。中へは入ってこられません。工房の敷居を、勝手に跨がない方でございます。それだけは、縫い手の作法をご存じの方の立ち方でございました。
「お入りください」
「では」
入ってこられて、まず糸の棚をご覧になりました。顔を寄せられます。枷の一つを目の高さまで持ち上げて、それからお戻しになりました。
「四十日でございますか」
「はい」
「王都では、そこまで置きません。置く場所がございませんので」
◇
冬のあいだ、工房の火は朝と夕の二度しか焚きません。薪が春まで保ちませんので。
昼は火を落として、代わりに窓際で縫います。板を打っていない南側の、いちばん端でございます。手が冷えますと、糸を引く力が強くなります。強く引いた縫い目は、暖かい部屋で洗ったときに引きつります。ですから冬の縫い目は、冬のうちに確かめられません。
春まで待って、洗って、それで分かります。
卓の端にお掛けいただいて、わたしは針を持ちました。
手を動かしていないと、この方の話を聞くのが難しゅうございます。
「昨晩、申し上げかけたことでございますが」
「道具箱の件でしょうか」
「はい。その前に、申し上げておくことがございます」
リンデ様は膝の上で両手を重ねられました。
「四十七番の帳を書いたのは、わたくしでございます」
◇
針が止まりました。
四十七番。ブルーメ工房の登録意匠。十一年前の秋に登録されて、去年の春に取り消されたもの。母の縫い取りの形でございます。
「……書かれた」
「はい」
「ブルーメ様ではなく」
「あの方は帳をお書きになりません。字が大きすぎて、枠に入りませんので」
そう言って、リンデ様は少しだけ笑われました。笑いではございません。事実を申し上げるときの、口の端の動きでございます。
「意匠の欄に形を写して、寸法を書いて、日付を入れて、届け出の名を書きます。書くのは帳付けの仕事でございます。四十七番は、わたくしの手でございます」
◇
わたしは針を布へ刺したまま、置きました。
この方は、詫びておられません。言い訳もなさいません。「そうするしかなかった」とも「知らなかった」とも、おっしゃらない。
仕事の内容を、仕事の言葉で申し上げておられます。書きました、と。
「なぜ、それをわたしにお話しになるのです」
「先に申し上げておかないと、こちらの頼みごとが通りませんので」
「頼みごと」
「はい」
リンデ様は、卓の上のわたしの手元をご覧になりました。縫いかけの布ではなく、その脇に置いた目打ちのほうでございます。
「お母上が、工房を出るときに持ち出されたものを、拝見したいのでございます」
◇
――やはり、ご存じでいらっしゃる。
わたしは黙っておりました。黙っている間、リンデ様は急かされません。両手を重ねたまま、卓の木目を見ておられます。近くまで顔を寄せて、木目を。
「奥様。お怒りでございましょう」
「怒っておりません」
「怒っておいででしょう」
「怒っておりません」
本当のことでございます。
わたしは怒っておりませんでした。怒りというのは、相手が自分の側の理屈を言ってきたときに出るものでございます。この方は何も言っておられません。
◇
「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「その帳をお書きになったとき、これは母のものだと、ご存じでしたか」
リンデ様は、初めて答えを止められました。止まったのは、三つ数えるあいだでございます。
「存じておりました」
「では」
「わたくしは、書いただけでございます」
◇
書いただけ。
その一言が、この方のなさったことの全部でございました。形を写したのはご自分ではない。取り上げたのもご自分ではない。母を追い出したのもご自分ではない。ただ、枠に形を写して、寸法を書いて、日付を入れて、届け出の名を書いた。
それだけで、母の三十年は、ブルーメ工房の四十七番になりました。
布であれば、こういうことは起こりません。
一枚の布に、裁った者、縫った者、始末をした者が別々についていても、縫い目を見れば誰の手かは分かります。裁ちが荒ければ縫い代の幅が揃いません。始末が急げば返しの二度目が浅くなります。手は残ります。残るから、逃げられません。
紙は違うのでございましょう。
書いた者の手は紙に残ります。けれど、その紙が誰の何を取り上げたかは、紙のどこにも書いてございません。書いてあるのは、形と、寸法と、日付と、届け出の名だけでございます。
――手を汚しておられません。
わたしは針を取り直しました。
「リンデ様」
「はい」
「布は、縫った者の手が出ます。強く引く人の縫い目は、洗うと引きつります。急ぐ人の返しは、二度目が浅うございます」
「存じております」
「帳は、書いた者の手が出ますか」
◇
リンデ様は、そこで初めて顔を上げられました。
目を細めずに、まっすぐこちらをご覧になりました。近くまで寄せなくても見える距離ではございません。それでも、まっすぐご覧になりました。
「出ます」
「では、なぜ今さら、探しにおいでになったのです」
「……」
「十一年、何もなさらなかった方が、雪の来る日に合わせて十九日かけて出てこられました。道具箱の中身をご覧になって、どうなさるおつもりですか」
◇
リンデ様は、湯呑みへ手を伸ばして、途中でお戻しになりました。昨晩と同じ、音のしない置き方でございます。
「奥様。春になりますと、ブルーメ工房の残りの登録が、洗い直されます」
「三十七件の」
「ご存じでしたか」
「聞いております」
「洗い直すというのは、帳を最初から見るということでございます」
それだけおっしゃって、リンデ様は立ち上がられました。戸口まで下がって、敷居のところで、もう一度お辞儀をされました。
「わたくしの手が、三十七件ぶん、並びます」
◇
その日の残りを、わたしは寝かせ糸の札を書いて過ごしました。
枷が十一。それぞれに撚りの強さを書きます。巻いた日を書きます。どの織りに使うつもりかを書きます。書いておかないと、四十日後の自分が困ります。四十日というのは、覚えているつもりで覚えていない長さでございます。
札を紐で結びました。結びながら、さきほどの言葉を思い出しておりました。
三十七件ぶん、並びます。
あの方は、ご自分が詰むとおっしゃいました。詰むのを避けるために控えを探しに来たのだと、そう聞こえる言い方でございました。けれど、それならば。
――探しに来ずに、黙っておられればよろしいのに。
控えがどこにあるか、わたしは知りません。組合も知りません。この十一年、誰も探しませんでした。放っておけば、春の洗い直しで三十七件の帳が並んでも、控えが出てこない限り、順番は分かりません。それを、わざわざ雪の来る日に合わせて、出てこられました。
紐を結び終えて、札を枷へ下げました。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
撚りたての糸は、まだ動きます。そのまま縫いますと、洗ったときに糸だけが縮んで、布に皺が寄ります。四十日ほど巻いて置くと落ち着きます。急ぐ人ほど、この四十日を飛ばします。飛ばしたことは、縫った当日には分かりません。分かるのは、最初に洗った日でございます。
次話、リンデ様は、もう縫えません。目が悪くなると、残るのは帳のほうでございました。
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