第24話 板を打つ日に、お一人だけ
板を打つ日は、前の晩に決まります。
風の音が低くなって、間が長くなる。あの音が来た翌朝でございます。今年は婚礼から十六日目の晩に、その音がまいりました。
朝、バルトが廊下を端から端まで歩いて、窓を数えております。
「北側が十一、東が七、西が四。南は打ちません。去年と同じでございます」
「南は、なぜ打たないのです」
「日が入りますので。旦那様がそうお決めになりました。十年前に」
十年前と申しますのは、先妻の一人目がいらした頃でございます。バルトはいつも、そういう数え方をなさいます。
◇
板は蔵の裏に積んでございます。夏のあいだに一度ばらして、日に当てて、また積み直したものです。それをしないと反ります。
わたしが見ておりましたのは、板そのものより、板と窓のあいだに挟む布のほうでございました。
去年までは古い麻を裂いて挟んでおられたそうです。麻は水を吸います。吸ったまま冬を越すと、春に窓枠が黒くなります。
今年は羊毛の打ち直しを挟みました。グレーテのお母上が織られた古い膝掛けを、ほどいて、洗って、打ち直したものでございます。羊毛は水を吸っても、吸ったところが重くなるだけで、木へは移りません。
挟む前に、幅を測って裁ちます。窓枠より二分だけ広く取ります。ちょうどに切ると、板を当てたときに逃げて、隅が空きます。二分ぶん余らせて、押し込んで、余ったところを指で下へ折る。折り目は下向きにいたします。上向きに折りますと、そこへ埃が溜まって、埃が湿気を呼びます。
打つ順は下から上でございます。上から打ちますと、下の板を入れるときに上を持ち上げることになって、挟んだ布がずれます。
「奥様。こういうものは、去年のうちに言うものでございますよ」
グレーテがそう言いながら、いちばん高い窓の板を押さえておられます。
「去年は、まだここにおりませんでした」
「そうでしたか」
そうでした、ではございません。ご存じで言っておられます。
◇
昼を過ぎて、北側の十一枚が終わりました。
打ち終えると、屋敷の音が変わります。外の音が遠くなって、そのぶん、中の音が近くなる。廊下の向こうで誰かが皿を置いた音まで聞こえるようになります。
この音の変わり方に慣れるのに、去年は半月かかりました。
東側の七枚に取りかかったところで、ヨハンが門から走ってまいりました。
「坂を、人が上がってまいります」
「荷は」
「ございません。歩きでございます」
◇
この時期に、歩きで坂を上がる人はおりません。
行商は冬前の最後の一回が済んでおります。村の方であれば、荷を持たずに上がってくる用がございません。
わたしは門のところまで下りました。
坂の三分の二あたりに、人影がひとつございました。
黒に近い焦茶の外套。背は低く、歩幅が狭い。杖はお持ちでない代わりに、右手をときどき腰の後ろへ回して、そこで一度息を整えておられます。
外套の裾が、片側だけ擦れておりました。石のところを歩き慣れた擦れ方ではございません。荷馬車の縁に当たる高さでございます。長いこと乗り物の端に座ってこられた方の裾でございます。
布は上等でございました。目の詰まった綾織で、毛羽が寝ております。十年は着ておられます。けれど、直しが素人の手でございました。肘の裏に当て布が入っておりますのに、当て方が表からでございます。裏から当てれば表に線が出ません。ご存じない方の直しでございます。
――ご自分では縫われない方が、良いものを長く着ておられる。
それから、指でございました。
門まで上がってこられて、顔を上げられたとき、その方は帽子の紐をほどこうとして、右の中指の腹で紐を押さえられました。
あすこに、たこがございます。
縫い手のたこは、人差し指の第一関節の外側と、中指の腹の先寄りに出ます。針を押すところでございますから。
この方のたこは、中指の腹の、根のほうでございました。
――筆でございます。
◇
「オストマルクの奥様でいらっしゃいますか」
声は低く、はっきりしておられました。息は上がっておられますのに、語尾は一度も落ちません。人前で話すことを長くしてこられた方の声でございます。
「はい」
「ヴィルマ・リンデと申します」
わたしは待ちました。
その方は帽子を取って、両手で持ち直されました。それから、目を少しだけ細めて、わたしの顔をご覧になりました。近くまで来ておられるのに、まだ足りない、という細め方でございます。
「アニェスの帳を、書いておりました」
◇
母の名を、他人の口から聞いたのは、十一年ぶりでございます。
実家では母の名を出しませんでした。継母は「前の奥様」と呼びましたし、クラーラは呼ぶ必要がございませんでした。わたし自身も、心の中では「母」としか呼んでおりません。
アニェス。
その三音が、坂の上の風の中で、ひどく短く聞こえました。
わたしはそのとき、手に板の切れ端を持っておりました。東側の七枚の、まだ打っていないぶんの一枚でございます。持ったままだったことに、そこで気がつきました。
切れ端を、門の柱に立てかけました。
「……お上がりください」
「よろしいのですか」
「板を打っております。中は暗うございますが」
「わたくしは、暗いほうが見えます」
◇
広間へお通しして、湯を運ばせました。
リンデ様は椅子に浅くお座りになって、湯呑みを両手で持たれました。持ち上げて、口の手前で止めて、それから顔のほうを湯呑みへ寄せられます。
物を目のところへ持っていくのではなく、目を物のところへ持っていかれる。
「王都から、おいでですか」
「十九日かかりました。乗り継ぎで」
「行商の便は、もう出ておりません」
「存じております。ですから、乗れるところまで乗って、あとは歩きました」
「どちらまで乗られました」
「麓の宿場までは荷馬車が入ります。塩を積んだのが、月の終わりに一度だけ。それに乗せていただきました」
塩の荷は冬の入りに一度だけ動きます。それを知っておられて、それに合わせて王都を出られたということでございます。宿場からここまでは、荷のない足で丸一日でございます。
湯呑みを置かれました。置く音がしませんでした。指の力の抜き方をご存じの方でございます。
「奥様。ご無礼を承知で、先に申し上げます」
「はい」
「わたくしは、お母上の道具箱を拝見しに来ました」
◇
旦那様が広間へお入りになったのは、そのすぐあとでございます。
板を打っておられたので、外套に木の粉がついたままでした。リンデ様をご覧になって、それから卓の上の湯呑みをご覧になりました。
湯呑みを取り上げて、裏を返されました。
底を見て、また戻される。物をご覧になるときの、いつもの所作でございます。
「オストマルクだ」
「ヴィルマ・リンデと申します」
「王都から歩いてきたと」
「乗り継ぎで、途中まで」
旦那様はしばらく黙っておられました。それから、窓のほうへ顎を向けられました。
「今晩、来る」
「……雪でございますか」
「昼から風が下りている。夜半だ」
リンデ様は、初めて表情を動かされました。
驚きではございません。計算しておられる顔でございます。
「では、春まで戻れませんね」
「戻れない」
「承知しております」
承知しておられました。
この方は、それを承知でこの日に着くように、十九日かけて出てこられたのでございます。
◇
その晩、雪がまいりました。
板を打った窓の内側で、音は聞こえません。けれど朝になれば分かります。
わたしは工房の灯りを落とす前に、棚のいちばん下から母の道具箱を出して、膝に載せました。
留め金の爪は、まだ曲がったままでございます。
底板の下の、細長い空き。長さ一尺、幅三寸。
――なぜ、道具箱だとご存じなのでしょう。
わたしは箱を棚へ戻しました。
あの方は「お母上の道具箱を拝見しに来ました」とおっしゃいました。中に何があるか、とはおっしゃいませんでした。
何が無いかを、ご存じの言い方でございました。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
縫い手のたこは、人差し指の第一関節の外側と、中指の腹の先寄りに出ます。針の頭を押すところだからです。帳を書く人のたこは、中指の腹の根のほうに出ます。筆を挟むところが違いますので、同じ指でも位置がずれます。手を見れば、その人が何を何年してきたかが分かります。
次話、リンデ様が、ご自分から名乗られます。四十七番の帳を書いたのは、この方でございました。
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