第20話 写せていないのは、始末のほうです
ホルスト様が、まず左を見られました。
顔を近づけて、しばらく。それから右へ移って、また左へ戻る。二度往復して、顔を上げられました。
布を見る目ではありません。書類を読む目でございます。同じところを二度読んで、違いを探す目です。
それでよいのです。今日は仕立ての良し悪しを決める場ではありません。合致しているかどうかを決める場でございます。
合致は、目より数で決まります。数なら、縫えない人にも分かります。
「――同じに見えるが」
「同じでございます」
ブルーメ様がそう言われました。
「形は、同じでございます」
わたしはそう申し上げました。
「では、何が違う」
「三つ、違います」
◇
「ひとつ。返しの数でございます」
わたしは右の布、ミナの婚礼衣装のほうへ指を差しました。
「こちらは三度返しております。左は、二度でございます」
ホルスト様が、また顔を近づけられました。組合の若い方も、卓の横へ寄ってこられます。
「――数えられるのか、これが」
「糸をたどれば数えられます。目打ちの背でお押しになると、山が見えます」
わたしは目打ちを差し出しました。ホルスト様が受け取って、布へ当てられます。
しばらく黙って、それから小さく息を吐かれました。
「二つある。……こちらは三つだ」
返しというのは、糸を同じところへ通し直すことでございます。一度で止めると、糸が抜けます。二度で止めても抜けます。ゆっくりですが抜けます。三度で止まる。四度目からは、糸の束が厚くなって、そこだけ肌に当たります。
二度と三度の差は、目には見えません。指でも分かりません。目打ちで山を押し出して、はじめて数えられます。
誰も数えないので、二度でも通ります。
通るのは、次の洗いまででございます。
◇
「ふたつ。糸の太さでございます」
わたしは自分の糸巻きの箱を卓へ載せました。
印に使う糸は、本体を縫った糸より一段細いものを選びます。同じ太さを使うと、縫い代のそこだけが硬くなる。硬いところは動きません。周りが動いて、そこだけ動かないと、境目から折れます。
左の一枚は、同じ太さでございました。本体と印を区別しておりません。
組合の若い方が布を持ち上げて、光にかざしました。しばらく黙ってから、同じですね、と小さな声で言われました。
◇
「みっつ。結び目の向きでございます」
わたしは二枚の縫い代を並べて置きました。
わたしの結び目は左へ寄っております。左の一枚は右でした。
「それは、どちらでもよいのでは」
ブルーメ様が、そう仰いました。この日はじめて、あの方の声に速さが出ました。
よくございません。
布を洗うと縫い代は起きます。起きる向きは縫った向きで決まります。結び目を起きる側へ置くと、洗うたびに引かれる。引かれ続けたものは、五年で抜けます。
抜けても、着ている方は気づきません。裏の話でございます。気づかないまま、印だけが消えます。
◇
わたしは母の修業帳を出しました。
出しましたが、ホルスト様へお渡しはいたしませんでした。開いて、卓の上に置いただけでございます。
「二十三年前の日付でございます。ここに、返しは三度、糸は一段細く、結び目は左、と書いてございます」
「奥方。それは、こちらへ提出なさるか」
「いたしません」
ホルスト様の眉が、少し動きました。
「これは、母が自分で書いたものでございます。母はもうおりません。書いた本人のいない紙は、証にはならないと存じます」
「……では、なぜ出した」
「理由が書いてあるものは、これしかございませんので」
わたしは頁を指しました。
「二度では抜ける、四度は肌に当たる、と書いてあります。読み上げていただければ、それで結構でございます」
◇
ホルスト様は、しばらく帳面を見ておられました。
それから、卓の上の左の布を、もう一度手に取られました。
「ブルーメ殿」
「はい」
「四十七番の登録に、返しの数は記載がありますかな」
「……ございません」
「糸の太さは」
「ございません」
「結び目の向きは」
「ございません」
ホルスト様は、帳面を閉じました。
「では、この左の一枚は、四十七番に合致しておりますな。記載が無いのだから、二度でも三度でも合致する」
「さようでございます」
「同時に、右の六十八点も、四十七番に合致する」
「――さようでございます」
「つまり四十七番は、返しが二度のものも三度のものも、糸が太いものも細いものも、結び目が右のものも左のものも、すべて含む登録である。線が三本と点がひとつ、それだけの」
ブルーメ様は答えませんでした。
答えようがないのだと思います。四十七番は三度返しに限ると言えば、持参した左の一枚が登録から外れます。二度でも三度でもよいと言えば、登録の幅が広すぎることになる。広すぎる登録は何も特定できません。
どちらを選んでも四十七番が痩せます。
こちらから追い込んだのではありません。左の一枚を持ってこられたのは、あの方ご自身の判断でございます。
◇
広間が、静かでした。
わたしは何も申し上げませんでした。ここから先は、わたしの領分ではございません。
わたしがしたのは三つ数えて並べたことだけでございます。返しの数。糸の太さ。結び目の向き。どれもその場で誰にでも確かめられるものです。
主張はいたしませんでした。これはわたしのものだとも申し上げておりません。
申し上げれば争いになります。争いは証のそろっているほうが勝ちます。証はあちらにありました。書付があり帳簿があり番号がついております。
数えて並べただけなら争いになりません。
なりませんが、並んだものを見た人は自分で結論を出します。出した結論は人から言われたものより頑丈でございます。
これは母から習ったことではありません。十年、名を出さずに縫ってきて覚えたことです。
ホルスト様は書き物机へ戻って、しばらく紙に何か書いておられました。
「ブルーメ殿。組合の登録は、意匠を特定できることが要件のはずですな」
「……はい」
「線が三本と点がひとつ。これで特定できるとお考えか」
「登録の当時は、それで通っております」
「通ったのは、誰も争わなかったからでしょう」
ホルスト様は筆を置かれました。
「四十七番は、特定に足りません。足りない登録で、六十八点を差し止めることはできない。裁定所としては、そう見ます」
◇
ブルーメ様は、立ち上がられませんでした。
座ったまま、卓の上の二枚の布を見ておられます。左を一度手に取って、また置かれました。
「……返しを、三度にしておけばよかった、と仰るか」
どなたに向けた言葉なのか、分かりませんでした。
「三度にしても、同じでございます」
わたしはそう申し上げました。
「登録の紙に書いていない限り、何度にしても特定はできません。書くには、なぜ三度なのかを知っていなければなりません」
ブルーメ様の手が、卓の上で止まりました。
太い指でございます。関節が大きく、爪が短く切ってある。
その手を、わたしは十年ぶりに見た気がいたしました。母の手は細く、指が長うございました。同じ工房に、その二つの手があったのです。
「――アニェスは」
ブルーメ様が、そう言われました。
「アニェスは、なぜ出ていった」
「存じません」
わたしは首を振りました。
「わたしは、七つのときに手を取られて、三度返させられました。それだけでございます」
◇
組合の三名が帰られたのは、日が傾いてからでございました。
村の方は、みなさま布を抱えて坂を下りていかれました。誰も何も言いません。言うことがなかったのだと思います。数えられて、返されて、それで終わりました。
ミナだけが、階段のところで振り向いて、一度お辞儀をしていかれました。
広間には、卓の上の左の一枚が残っておりました。
ブルーメ様が置いていかれたのです。持って帰らないというのが、あの方の返事だったのでしょう。
わたしはそれを畳んで、工房へ持ち帰りました。
◇
その晩、母の道具箱の底板を、もう一度起こしました。
細長い空きが、そこにございます。長さは一尺ほど、幅は三寸。
母の修業帳には、この仕切りのことは一行も書いてありません。書いていないということは、書けなかったのか、書く必要がなかったのかのどちらかでございます。
わたしは、ブルーメ様の最後の言葉を思い出しました。
――アニェスは、なぜ出ていった。
あの方は、母が出た理由をご存じないのでございます。
揉めたのは印のことだと、帳面には書いてありました。それは母の側から見た理由です。あちらから見れば、別のことが起きていたのかもしれません。
起きていたことが何かを知っている人は、もう一人しかおりません。
――そして、母は何かをこの箱から持ち出しております。
持ち出したものが王都にあるのか、実家にあるのか、それとも別のどこかにあるのか。
わたしは底板を戻して、蓋を閉めました。
留め金の爪は、まだ曲がったままでございます。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
登録できるのは形だけです。返しを何度にするか、糸をどれだけ細くするか、結び目をどちらへ寄せるか。そういうものは、なぜそうするのかを知っていなければ書けません。書けないものは、登録に載りません。
次話、王都から最後の手紙が届きます。差出人は、継母でございます。
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