第16話 縫い手組合の親方が、まいりました
クラーラは、その日のうちには帰れませんでした。
道が開いたばかりで、下りの便がありません。次の橇が出るのは十日後だと言われて、妹は客間で泣きました。泣いてから、夕食には下りてきて、羊の煮込みを二杯おかわりなさいました。
この子は、そういうところがございます。
荷物を運ぶのを手伝ったとき、包みのひとつが妙に重うございました。
「これは」
「ああ、それ。お母様が、持っていけって」
開けると、木の箱でした。
◇
母の道具箱でございます。
蓋に彫りはなく、角を革で包んであります。使い込んで、革の色が黒くなっている。留め金は真鍮で、爪のところが少し曲がっておりました。十一のときに見たきりで、それから実家のどこかにあるのだろうと思っておりました。
「どうして、これを」
「支度を縫うなら道具も要るでしょう、って」
わたしは箱を持ったまま、しばらく妹を見ておりました。
縫えと言って、道具まで持たせる。断られているとは思っていないのです。返事が来ないのは、まだ考えているからだと思っておられる。
「お姉様、開けないの?」
「あとで」
◇
二台目の馬車が来たのは、十日後でした。
クラーラの帰る便と入れ違いでございます。妹は玄関で見送られながら、最後まで櫃のことを言っておりましたが、旦那様が一度だけ「置いていけ」と仰って、それで終わりました。
入れ違いに上がってきた馬車は、黒でした。
紋はありません。ただ、車体の作りがよいのはすぐ分かります。轅の留め金が二重になっていて、雪解けの道でも緩みません。乗ってきた方が、そういうところに金をかける方だということでございます。
降りてきたのは、五十半ばの男の方でした。
◇
「ゲルハルト・ブルーメと申します。王都の縫い手組合で、親方をしております」
広間で、まずそう名乗られました。
「オストマルク辺境伯、レオンハルトだ」
旦那様が短く返されました。名乗るときも短い方でございます。
背は低く、肩が厚い。髪は短く刈ってあります。身なりは地味でしたが、上着の縫いは上等でした。襟の裏が返っておりません。よい仕立て屋を持っていらっしゃるのだと思いました。
自分では縫わない方の上着でございます。縫う者は、自分の上着に手をかけません。手をかける時間があれば、客の布を縫います。
旦那様が卓の向こうに座っておられます。わたしは横に立ちました。バルトが後ろに控えております。
「遠路、ご苦労でございました」
旦那様がそう仰いましたが、ブルーメ様は座られませんでした。
「立ったままで失礼いたします。長居はいたしませんので」
鞄から、紙の束を出されました。
◇
「こちらが、組合の登録帳の写しでございます」
卓の上に広げられました。
罫の引かれた紙に、細かい図が並んでおります。刺繍の模様、縁飾りの形、留め具の意匠。それぞれに番号と、工房の名と、日付。
三枚目に、それがございました。
糸を三度返して、結び目をひとつ。図で見ると、ただの線と点でございます。
番号は四十七番。工房の名はブルーメ。日付は、十一年前の秋。
母が亡くなった年でございました。
図をもう一度見ました。
線が三本と、点がひとつ。返しの向きは右から左。それだけです。寸法の指定はありません。糸の太さも書いてありません。位置も「縫い代内側」とあるだけで、脇の下から三寸とは書いてない。
この図では、縫えません。
図から縫えるものというのは、寸法と順序が入っているものでございます。刺繍の模様なら、目数が要る。縁飾りなら、幅と間隔が要ります。四十七番には、どれもありません。
書いた人は、これを見たことはあっても、縫ったことがない。
見て、線を写した図でございます。
「ご覧のとおり、当工房の登録でございます。書付もございます」
「――これを、登録なさったのは」
「わたくしでございます」
◇
ブルーメ様は、次の紙を出されました。
「本日うかがいましたのは、こちらの土地で、この意匠を用いた縫製が行われていると聞き及びましたので」
「聞き及んだ、と申しますと」
「ヴァルトハイム家より」
わたしは頷きました。
「組合の定めでは、登録意匠の無断使用は、差し止めのうえ、相当額をご請求申し上げることになっております」
「相当額」
「一点につき、仕立て代の三倍でございます」
紙には、金額の欄が空けてありました。
◇
「何点、ございましょうか」
ブルーメ様が、そう聞かれました。
わたしは、答えませんでした。
答えれば、数がそのまま金額になるのです。答えなくても、調べれば分かることでございます。この土地で誰の布に手を入れたかは、村へ行って聞けば済みました。
冬のあいだの十七人。それに、屋敷の寝具十七組と、幕四枚と、卓布。ミナの婚礼衣装。ヘルガの上衣。ドロテアさんの喪の黒。
どれも、縫い代に入れております。
癖でございました。誰も見ないので、意味もないと思っておりました。
数えれば、六十点は下りません。仕立て代の三倍でございます。
村の方の上衣一枚の仕立て代が、この土地でいくらになるのかは存じません。麦で払う方もおられました。桶の簀で払ってくださった方もおられます。値のついていないものに三倍をかけると、いくつになるのでしょうか。
いくつでもよいのだと思います。
この請求は、金を取るためのものではありません。金を取るつもりなら、村の方から取れるはずがないのは、あの方がいちばんご存じです。
止めさせるためのものでございます。
「ご請求は、縫った者に対してでございますか」
「本来は。ただ、着ている方から回収する例もございます」
――村の方から、でございますか。
声には出しませんでした。出せば、それが交渉になります。
◇
ブルーメ様は、そこで初めてこちらをまっすぐご覧になりました。
「奥様は、どちらでお習いに」
「母でございます」
「お母上のお名前は」
「アニェス・ヴァルトハイムでございます」
ブルーメ様の目が、ほんの少し動きました。
動いたのは目だけで、顔はそのままでした。それから、卓の上の紙を揃えて、鞄へ戻されました。
「存じません」
◇
旦那様が、卓を指で一度叩かれました。
「差し止めるとして、いつまでにどうしろと言う」
「新たに施すのを止めていただければ。既に施されたものは、追ってご相談ということで」
「追って、とは」
「王都から検分の者を寄越します。実物を検めて、点数を確定いたします」
「いつだ」
「ひと月ほどかと」
ブルーメ様は頭を下げて、扉のほうへ歩かれました。
途中で一度、卓の上に置いてあったわたしの針山を見ていかれました。見ただけで、手には取られませんでした。
◇
馬車が坂を下りていくのを、窓から見ておりました。
バルトが横に来て、低い声で言いました。
「奥様。あの方の手を、ご覧になりましたか」
「はい」
紙をめくるとき、指が三本まとまって動いておりました。
太い指でございます。関節が大きく、爪が短く切ってある。力仕事の手ではありません。長く道具を握ってきた手でもない。
あれで、縫い代の内側へ三度返して結び目を入れるのは、無理でございます。
できない人が、できる形を登録しております。
それだけなら、ただの横取りでございます。腹は立ちますが、話は単純です。
わからないのは日付でした。十一年前の秋。母が死んだ年です。
母が生きているうちに登録したのなら、母は知っていたはずです。知っていて何も言わなかったのか。言えなかったのか。
母が死んだあとに登録したのなら、なぜその年だったのか。
どちらにしても、あの方は母を知っております。
知っていて、名を聞かれて「存じません」と答えられました。答える前に、目が動きました。
わたしは工房へ戻って、母の道具箱を裁ち台に載せました。
留め金の爪が曲がっていて、なかなか外れません。目打ちの背を差し込んで、少しずつ起こしました。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
上着を見るときは、まず襟の裏を見ます。返りが甘いと、そこが最初に型崩れします。よい仕立て屋を持っている方は、たいてい襟の裏がきちんとしております。
次話、母の道具箱が開きます。中には型紙と、糸見本と、それから一冊の帳面が入っております。
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