第15話 裏を、ご覧になりますか
馬車が中庭へ入るのを、わたしは工房の高い窓から見ておりました。
車輪に泥が厚くついております。雪解けの道を上がってきた車です。轅の留め金がひとつ外れかけていて、御者が下りてまず見たのはそこでした。七日の道中で緩んだのでしょう。
降りてきたのは、外套の裾を持ち上げた娘がひとりきりでした。
供がおりません。ヴァルトハイムの娘が七日の旅に出るのに、女中も付けずに来るということは、付ける人がいなかったということでございます。
クラーラは、外套を脱ぐより先に喋り始めました。
「お姉様、ひどいわ。お手紙も下さらないで」
広間には人がおりました。道が開いた日でございます。冬のあいだ坂を上がれなかった村の方が、四人ほど布を持って来ておられました。グレーテとバルトもおります。旦那様は、まだ降りていらっしゃいません。
妹は、その人たちを見ませんでした。
王都から来た者が辺境の広間に立つと、たいてい、人を見ません。物と、寒さと、それから自分の靴が汚れないかを見ます。
「馬車がひどいのよ。七日もかかって、宿はどこも寝台が固くて」
「よく来られました」
「お母様がお倒れになったの」
◇
わたしは、その言葉を待っておりました。
二通目の手紙が来てから、三月あまり経っております。返事を出さない相手に三度目を書かないのがヘドヴィヒ様のやり方でございます。書かない代わりに、人を寄越す。
「お医者様は、お気を落とされたせいだと」
「そうですか」
「そうですかって、お姉様」
クラーラは手袋を外して、卓の上に置きました。
「五度目のお話が流れて、それで六度目もまとまらなくて。お母様、ずっと支度のことを言っていらっしゃるの。あの子が縫えばいいのに、って」
「わたしは、この家の者でございます」
「まだ婚礼を挙げていらっしゃらないでしょう」
広間が、少しだけ動きました。
誰かが息を吸った音でございます。この土地の方は、その話をわたしの前でなさいません。三月のあいだ、一度も。
クラーラは知っていて言ったのではないと思います。知らずに言える子です。
◇
「櫃を持って帰ります」
妹はそう言いました。
「あの櫃は、もともとわたくしの支度ですもの。お姉様が嫁ぐことになったから貸しただけで」
「貸した」
「そうでしょう。お姉様のものではないわ」
わたしは、部屋の隅を見ました。
櫃は、そこにございます。冬のあいだ工房へ運ぶつもりでおりましたが、重いので、そのままにしてありました。中身は半分ほど出してあります。残っているのは婚礼衣装と、褥布が二組。
出した半分がどこへ行ったかは、この広間にいる方々がご存じです。
肌着の三枚は、ミナの婚礼の当て布と、ドロテアさんの襟の芯と、ヘルガの上衣の裏の渡しに。手巾は九枚が村の子の産着の縁取りに。卓布は二枚とも裂いて、当て布の束にいたしました。
支度は、しまっておくものでございます。そのしまっておくものを、わたしは冬のあいだじゅう裂いて、切って、人の布の裏へ入れておりました。
三代もつように縫ったものです。その半分が、いまこの土地の十七人の衣装の裏側に入っております。
「中身は、半分ございません」
「使ったの?」
「はい。手当てに使いました」
「まあ」
クラーラは、心の底から驚いた顔をなさいました。
「わたくしの支度を、勝手に」
◇
ここで何か申し上げるべきだったのだと思います。
あれは十年ぶんわたしが縫ったものです、と言えばよかった。ヴァルトハイムの縁談は全部わたしの櫃で通りました、と言えばよかった。
言いませんでした。
言えば、この子は「知らなかったわ」と言います。知らなかったのは本当ですから、そこで話が終わります。終わったところで、何も変わりません。
この十年、わたしはずっと言わずにきました。言わなかったから、こうなったのだとも思います。
けれど、いま言っても、遅うございます。
「クラーラ」
「なあに」
「櫃を、開けますか」
◇
妹は蓋を開けて、婚礼衣装を引っ張り出しました。
引っ張り出す、という言い方が正しゅうございます。畳んであるものの端をつかんで、持ち上げて、床へ広げました。
石の床でございます。冬の湿りが抜けきっていない床です。
わたしは、そこで初めて声を出しました。
「――床には」
自分でも驚くほど低い声が出て、広間の四人が振り返りました。
クラーラは手を止めて、こちらを見ました。
「なによ。わたくしのものよ」
「床には、置かないでください」
わたしは膝をついて、衣装を持ち上げました。裾が濡れております。半刻もあれば乾きますが、乾いても、そこへ石の粉が入ります。入った粉は、次の冬に黴の芯になります。
持ち上げて、卓の上へ置きました。
置いてから、裾の折り返しを手に取りました。
この衣装は、四年前の冬に縫ったものです。三度目の縁談のときでした。四度目には新しく縫う余裕がなく、寸法だけ直して使い回しました。直した跡は腰に残っております。誰も気づきません。
わたしは折り返しを持ったまま、少し待ちました。
順番を決めておりました。先に数を言う。それから裏を見せる。逆にすると、裏を見せても数が出てきません。
◇
「クラーラ。この衣装、どなたが縫いましたか」
「知らないわ。仕立ての者でしょう」
「では、名前をご存じですか」
「そんなの、いちいち」
「わたしでございます」
妹は、一度まばたきをしました。
「お姉様が?」
「四度ぶん、全部でございます。婚礼衣装が四枚。肌着が二十四枚。褥布が十六組。卓布が十枚。手巾が四十八枚。産着が十二枚」
数を言ったのは、そのほうが早いからでございます。
人は「全部」では信じません。数を言うと、信じます。
「うそ。だってお姉様、そんな」
「三百五十日でございます。四度ぶんで」
クラーラは、笑おうとして、うまくいきませんでした。
「証拠がないじゃない」
◇
わたしは、裾の折り返しを裏返しました。
脇の縫い代。下から三寸のところ。
指の腹を当てて、それからクラーラの手を取って、そこへ当てました。
「なによ、これ」
「糸でございます。三度返して、結び目がひとつ」
「だから、なによ」
「わたしの手が入ったものには、全部これが入っております」
広間の四人が、近づいてきました。
グレーテが最初に手を伸ばして、縫い代をなぞりました。それからバルトが。村の方が三人、順に。
「――ございますな」
バルトが言いました。
「奥様。わたくしの外套の裏も、これでございましょうか」
「入っております」
「ミナの婚礼衣装にも?」
「入っております」
クラーラは、まだ縫い代に触れたままでした。触れたまま、動きません。
「これ、王都の櫃にも」
「四つとも」
村の方のひとりが、自分の袖口をめくりました。冬に丈を出した上衣です。裏を返して、縫い代をなぞって、それから隣の方に見せました。
次の方が、前掛けの紐の付け根を見ました。
三人目は、抱えてきた包みを解いて、これから直してもらうつもりの布を広げました。まだ何もしていない布です。当然、何もありません。それを確かめて、その方は少し笑いました。
入っているものと入っていないものを、その場で見比べたのだと思います。見比べれば、はっきりします。
◇
妹の顔から、色が抜けていくのが分かりました。
この子は、いま初めて考えたのだと思います。四つの櫃が、四つの家に置いてある。その一枚一枚の縫い代に、姉の印が入っている。誰かが裏を見れば、分かる。
支度は三代もつものでございます。三代、置いてあるのです。
この国では、破談になった縁談の支度は返しません。持たせた側が引き取ると、次の縁談で使い回したと言われるからです。四つの櫃は、四つの家の蔵にそのままございます。
――誰も裏など見ないと思っていたのだわ。
わたしもそう思っておりました。十年、誰も見ませんでした。
見なかっただけで、見られないわけではありません。
「……そんなの、後から入れたのかもしれないじゃない」
「後からは入りません。縫い代は、仕立てるときにしか触れませんので」
「じゃあ、じゃあ」
クラーラは手を引きました。
「その形、お姉様のものじゃないわ」
わたしは顔を上げました。
「王都の組合が持ってるって、お母様が。縫い手の組合の、登録の意匠だって。だからお姉様のものじゃないの。ブルーメさんが、そう仰ったのよ」
広間が、しんとしました。
わたしは縫い代を持ったまま、その名前をもう一度、頭の中で置き直しました。
登録の意匠、というものがあるのは知っております。
王都の縫い手組合は、加盟した工房の印を帳簿に載せます。載せた印は、その工房のものになる。ただ、あれは表に出す印の話でした。裾の刺繍や、襟の縁の模様や、そういう見えるものでございます。
縫い代の内側に入れるものを登録した工房を、わたしは聞いたことがありません。
――ブルーメ。
母の形でございます。母が、わたしが七つのときに、手を取って三度返させた形です。
それが、王都の誰かの登録になっている。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
縫い代は、仕立てるときにしか触れません。ですからそこへ入れたものは、後から足すことができません。表の飾りはいくらでも足せますが、裏の始末だけは、作った日にしか触れないのです。
次話、王都の縫い手組合から人が来ます。書付を持って、丁寧な言葉遣いで、法的に正しく。
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