第14話 旦那様が、笑いました
冬は、思っていたより短く感じました。
糸を寝かせるのに四十日。そのあいだ、することはいくらでもございました。
屋敷の直しが十七組。幕が四枚。それに、村から人が来るようになりました。
最初はヘルガの家の近所の方でした。次がミナの母上。そのあと、ドロテアさんの婚礼を見た方が三人。冬は外の仕事がありませんので、みなさま布を持って坂を上がってこられます。
直しの中身はさまざまでした。子の育った上衣の丈出し。破れた前掛け。婚礼ではなく、洗礼の産着。冬の外套の裏を入れ替えたいという方もおられました。
どの方にも、同じことを申し上げました。裏を見ます、と。
◇
帳面には、来た方の名前と、布の種類と、直した中身を書きました。
冬のあいだに、十七人になりました。
この土地に縫い手がいなかったのは、いなくてもよかったからではありません。頼む先がなかったからでございます。頼む先がないと、人は「そういうものだ」と思って、破れたまま着ます。破れたまま着ると、次の冬までもちません。もたないので、また新しく買う。
買う先も、行商しかありません。
――回っていなかったのだわ。
布が回らない土地では、布の知恵も溜まりません。溜まらないから、九組を毎年捨てることになります。
王都では、そうなりません。仕立て屋が通りに何軒もあって、直しを頼める先があります。頼めば直る。直れば長くもつ。長くもつと分かっているから、最初に少しよい布を買う。よい布は長くもつので、直す値打ちがある。
どこかで一度、輪が回り始めれば、そのあとは勝手に回ります。
問題は、最初のひと回りでございました。誰かが直せると分かるまで、誰も持ってきません。持ってこないので、直す人が現れません。
ミナの裾が、たまたま最初のひと回りになりました。三日後に婚礼を控えた娘が、ほかに頼る先がなくて、やってきただけのことです。
◇
十七人のうち、お代を布や糸で払ってくださった方が九人。仕事で払ってくださった方が五人。目打ちを直していただき、桶の簀を作っていただき、機の楔を打っていただきました。
残る三人は、何も持ってこられませんでした。
払えないと分かっていて来られたのだと思います。それでも来たのは、着るものがそれしかなかったからでございます。
わたしは三人ぶんを帳面に書いて、金額の欄を空けておきました。空けたのは、忘れるためではありません。忘れないためでもありません。ただ、埋めなくてよい欄がひとつくらいあってもよいと思ったのです。
◇
四十日目に、桶を開けました。
糸は、見た目には変わりません。持ってみると、少し重うございました。指で撚りをほどくと、ほぐれ方が違います。前より素直にほぐれる。繊維が膨らんで、互いの噛み合いが緩んだのでしょう。
これを織らねばなりません。
わたしは織れません。縫い手は織らないのです。
「グレーテさん。機は」
「母のがあります。物置に」
組み立てるのに三日かかりました。木が乾いて縮んで、部材が合わなくなっておりました。バルトが楔を打ち直して、どうにか立ちました。
グレーテが織り、わたしが横で見ました。
縦糸を張るのに丸一日かかります。何百本を同じ張りで並べる仕事で、ここが狂うと、あとは何をしても直りません。グレーテは端から順に、指で弾いて音を確かめておられました。同じ音になるまで直す。音で張りを揃えるというのは、初めて見ました。
織り始めると、速うございました。
筬を打つ手の加減が、王都で見た織り手と違います。強く打ち込みません。軽く、二度に分けて寄せる。強く打てば目が詰まって丈夫になりますが、この土地ではそれをしないのでしょう。
「グレーテさん。それは、教わったのですか」
「言われたことはありませんね。母がそうしてたから」
教わっていないことを、三十二年、手が覚えている。
こういうものを、書き留める人が誰もいなかったのだと思いました。
三日で二反。目は粗く、撚りは甘く、重い。母上の織られたものと同じ手触りでございました。
◇
仕立ては、これまでと逆に考えました。
目を詰めない。縫い代を割らずに片返し。重なりは減らす。裾も襟も、折り返しを浅く取ります。折り返しが深いと、そのぶん布が重なって水が残ります。
見た目は、王都の目で見れば粗末でございます。
母が見たら何と言うでしょうか、と一度だけ思いました。たぶん、何も言わないと思います。母は仕上がりを褒めたことも、けなしたこともありません。ただ裏を返して、指でなぞって、それで終わりでした。
二組こしらえました。
一組は寝かせた糸で織った布。もう一組は、王都から持ってきた麻を、仕立てだけ同じにしたもの。違いを一つにするためです。
蔵の台へ載せて、蓋は開けたまま。札を縫いつけて、日を書きました。
◇
十日は長うございました。
三日目に一度、見に行こうとして、階段の途中で止まりました。開ければ空気が入れ替わります。入れ替われば、条件が変わります。前の三組のときは六日目に開けました。あれも、いま思えば余計なことでございました。
わたしは階段を下りずに、工房へ戻りました。
その晩、旦那様が来られました。
「何日目だ」
「三日目でございます」
「あと七日か」
「はい」
旦那様は裁ち台の脇へ寄って、糸巻きの箱を見ておられました。太さごとに立てて並べたものです。
「これは、寝かせたほうか」
「左の三つが、寝かせたものでございます」
手を伸ばして、一つ取って、指で撚りをほどこうとなさいました。うまくいかず、二度目でほぐれました。
「……違うな」
「違います」
それだけの話でしたが、旦那様はしばらく箱の前におられました。
◇
十日目の朝、四人で蔵へ下りました。
わたしと、グレーテと、バルトと、旦那様。
わたしは一組目の札を確かめて、いちばん上の一枚を持ち上げました。
折り目を開きます。指で撫でます。鼻を近づけます。
――何も、ありません。
粉は出ておりません。灰色にもなっておりません。匂いも、しない。
厚みの真ん中まで指を差し込んで、止めました。
温こうございました。
二組目を開けました。王都の麻を、同じ仕立てにしたほうです。
こちらは、折り目に粉が出ておりました。前の三組ほどではありません。仕立てを変えたぶんは効いております。ただ、出ております。
差は、布でございました。
◇
わたしは一枚目を両手で持ったまま、しばらく立っておりました。
何か言わなければと思いましたが、言葉が出ませんでした。
バルトが帳面を落として、拾って、また落としました。グレーテは灯りを持ったまま、天井を見上げておられました。
「もつのか」
旦那様の声でした。
「……もちます」
「春まで」
「春どころではございません。この布でしたら、三代もちます」
顔を上げました。
旦那様が、笑っておられました。
目尻のところが少し下がって、口の端が上がっている。それだけでございます。ほかの方でしたら、笑ったうちに入らない顔かもしれません。
わたしは、この方が笑うところを初めて見ました。バルトも見たようで、帳面を三度目に落としておりました。
◇
蔵を出ると、外の音が違っておりました。
水の音でございます。屋根から落ちている。四か月、聞かなかった音でした。
中庭に出ると、雪が黒くなって、石が見えておりました。
「道が開きましたな」
バルトが言いました。
「今年は早うございます。例年より半月ほど」
わたしは坂の下を見ました。
白い斜面を、黒い点が二つ、こちらへ向かって上がってきておりました。
馬でございます。その後ろに、車。
車の側面に、紋が入っておりました。距離があってもよく見えます。金と、青。
――王都の。
わたしはその紋を、十年見て育ちました。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
折り返しを深く取ると丈夫になりますが、そのぶん布が重なって水が残ります。丈夫さと乾きやすさは、たいてい逆を向いております。どちらを取るかは、その土地が決めます。
次話、馬車から降りてきたのは妹でした。広間に人が集まっている前で、妹は言います。「その櫃の中身、ぜんぶわたくしのものですけれど」
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