第13話 辺境の織り手は、糸を寝かせます
洗い場は、朝がいちばん人が多うございます。
グレーテは大鍋の前に立って、灰汁の加減を見ておられました。わたしが入っていっても、こちらを見ません。
わたしは布を抱えたまま、隣に立ちました。
「これは、何という織りでございますか」
「織りに名前はありません」
「では、どなたが」
「わたしの母が織ったものです。四十年ばかり前の」
◇
鍋の中で灰汁が動いておりました。
グレーテは木の棒でそれをかき回しながら、こちらを見ずに話し始められました。
「糸をね、寝かせるんです」
「寝かせる」
「紡いだ糸を、すぐには使いません。桶に入れて、蓋をして、蔵に置いておく。ひと冬」
「ひと冬」
「そうすると、糸が土地に慣れます」
わたしは布を持ち直しました。
慣れる、という言い方が何を指しているのか、すぐには分かりませんでした。
「奥様は、王都の糸をお使いでしょう」
「はい」
「あれは南で紡いで、南で乾かした糸です。ここへ持ってくると、ここの水を吸います。吸って、太ります。太った糸で織った布は、目が詰まります」
◇
――そういうことでございましたか。
糸は、繊維を撚り合わせたものです。撚りのあいだには隙間がございます。その隙間の大きさは、紡いだ土地の湿り具合で決まります。乾いた土地で紡いだ糸は、隙間が小さい。
その糸を湿った土地へ持ってくると、繊維が水を吸って膨らみ、隙間が潰れます。
潰れた隙間には、風が通りません。
布が水を出せないのは、水を出す道が塞がっているからでございました。仕立てが悪いのでも、詰め方が悪いのでもありません。糸そのものが、この土地の空気の中で息をしていなかったのです。
寝かせるというのは、糸に先に水を吸わせて、膨らみ切らせてしまうということでしょう。膨らみ切った糸は、それ以上太りません。太らなければ、隙間は残ります。
「グレーテさん。寝かせた糸は、織ったあとに縮みませんか」
「縮みません。もう縮んでますから」
わたしは布をもう一度、両手で持ち直しました。
目が粗いのは、下手だからではありませんでした。粗く織るしかなかったのでもありません。粗いほうが風が通るから、粗く織ってあるのです。
撚りが甘いのも同じでしょう。きつく撚った糸は丈夫ですが、内側に空気が入りません。甘く撚れば弱くなります。弱くなるぶんを、太くして補っている。だから重い。
この布の作りは、全部が同じ一つのことを向いております。水を溜めない。それだけのために、丈夫さも、見た目の揃いも、手放してあります。
王都の織り手が見れば、粗末な布だと言うでしょう。
王都の織り手は、水を溜めない布を作る必要がありません。
◇
しばらく、二人とも黙っておりました。
鍋の中で灰汁が音を立てております。グレーテは棒を持ち上げて、しずくが落ちるのを見て、また戻しました。
「なぜ、教えてくださったのですか」
手が止まりました。
「三人とも」
声が、少し低くなりました。
「三人とも、あたしがお世話しました。マルグリット様の櫃を蔵へ入れたのも、あたしです。イルゼ様のも、アンナ様のも」
棒が、鍋の縁に当たって音を立てました。
「入れるときに、床に直に置きました。台に載せるなんて、思いつきもしませんでしたよ。誰も言わないんだから」
わたしは何も言いませんでした。
「春に開けて、ああなって。それで実家から人が来て、連れて帰られて。三度です。三度、あたしは玄関で見送りました」
グレーテは棒を鍋から出して、脇の桶へ置きました。
「四度目に、また同じことを見るのは、もう嫌なんですよ」
◇
「布を冬に出すな、というのは」
わたしがそう言いかけると、グレーテは首を振られました。
「あれは、あたしが言い出したんです」
「グレーテさんが」
「マルグリット様の櫃を、春に開けたときに。あたしがあの櫃を動かしたせいだと言われまして。動かしたのは事実です。蔵へ入れるのに、二階から下ろしましたから」
「それは、動かしたせいではございません」
「そうでしょうね。いまは、そう思います」
グレーテは前掛けで手を拭かれました。
「けど、当時は分かりませんでした。分からないときに、とりあえず何かを禁じるでしょう。禁じておけば、次に何かあっても、あたしのせいじゃなくなりますから」
三十二年ここにいる方が、三十二年ぶんの何かを守っていたのではありませんでした。守っていたのは、たった一度の失敗の記憶でございます。
禁じるというのは、便利な道具です。
理由が分からないときに、とりあえず動きを止められます。止めておけば、次に何かが起きても、止めた人の責任にはなりません。責任にならないものは、誰も見直しません。見直されないまま三十二年が経つと、それは掟になります。
わたしの家にも、同じ形のものがございました。
長女が針を持つのは体裁が悪い。縫い手の名は入れないもの。あれも、たぶん誰かが一度、都合が悪くなって言い出したことです。言い出した人はもういません。手順だけが残って、十年、わたしの名を消してまいりました。
同じ形のものが、この土地では布を殺しておりました。
◇
その日から、教わりました。
糸を寝かせる桶は、木で、蓋は板。蔵の隅に置きます。桶の底に一寸ほど水を張って、糸は水に触れないよう、簀の上に置く。触れさせると腐ります。触れさせずに、空気だけ湿らせる。
ひと冬というのは長すぎるので、急ぐときは四十日でも通るそうです。
「四十日でも」
「母はそう言ってました。半分寝てりゃ、寝てないよりましだと」
いま寝かせ始めれば、春の初めには使えます。
わたしは工房の糸巻きを全部出して、太さごとに分けました。王都から持ってきた麻糸が四種、行商で買ったものが三種、ヘルガの家の毛糸が二玉。
桶は厨房の裏に空きがありました。バルトに頼んで、簀を作ってもらいました。
糸を入れて、蓋をして、蔵の隅へ。
置きながら、グレーテが横で見ておられました。
わたしの手つきを見ていらしたのだと思います。糸の入れ方に決まりがあるのかどうか、聞かずに確かめておられる。教える側になるのは、この方も久しぶりなのでしょう。
簀の上に糸を並べるとき、重ねないようにいたしました。重ねると下のものだけ湿りが早くなります。同じ日に入れたものは、同じ条件で出したい。
「奥様。ひとつ、よろしいですか」
「はい」
「その、酢のやつ。あれ、ほかの家にも教えていいですか」
◇
夕方、工房へ戻って、母の織った一反を裁ち台に広げました。
目は粗いのに、重い。撚りが甘い。指で押すと沈んで、離すとゆっくり戻る。
これは、隙間の多い布でございます。
王都の目で見れば、粗末な織りです。目が揃っておらず、糸の太さも一定でない。市場に出せば安値がつきます。
けれどこの布は、この土地で四十年もっております。
わたしは端を少し切って、湯につけました。乾かして幅を測るためです。数を取らねばなりません。
帳面の「この土地の数」の頁を開いて、二行目を書きました。
三行目からは、まだ空いております。
埋めるべきことは分かりました。順に書き出します。
寝かせた糸の縮み。四十日と、ひと冬の差。粗い織りの水の抜け方。細かい織りとの比。この土地の羊毛の脂の量。脂を落とす加減。落とした糸を寝かせる日数。
七つ。どれも測れます。測るには時間が要ります。
春までに全部は無理でしょう。三つか四つ。それでも、去年より三つか四つ多い。
わたしは頁の下に短く書きました。
――布は買うものだと思っていた。
これは数ではありません。数ではありませんが、書いておくべきことでした。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
乾いた土地で紡いだ糸は、繊維のあいだの隙間が小さくできています。それを湿った土地へ持ってくると、糸が水を吸って太り、隙間が潰れます。潰れると布は水を出せません。ですから先に吸わせて、膨らみ切らせておく。糸を寝かせる、というのはそういうことでした。
次話、寝かせた糸で二枚目の試作を作ります。今度は蔵へ入れて、十日待ちます。
ブックマークと評価をいただけますと、この工房が続きます。




