第12話 十日で、黴が来ました
六日目の夜に、一度だけ見に行きました。
待つと決めたのに待てなかったのは、六日というのが、ちょうど蔵で見た布のことを思い出す長さだったからだと思います。
灯りを持って、鉄の扉を開けました。
三組とも、見た目には何ともありません。台の上に並べて、蓋は開けたまま。麻の札の番号も読めます。
一組目に手を入れました。冷たい。厚みの真ん中まで指を差し込んで、そこで止めて、しばらく置きます。人の指は温いので、布が冷たければ、その布はまだ水を持っております。
持っておりました。
二組目も、三組目も、同じでございました。
六日目では、まだ何とも言えません。何とも言えない、というのが分かっただけです。
布が冷たいこと自体は、当たり前でございます。蔵は冷えます。冷えた場所に置いた布は冷たい。問題は、その冷たさが空気の冷たさなのか、水の冷たさなのか、指では分けられないことでした。
わたしは蓋を戻さずに出て、鍵をかけました。
◇
十日目の朝、グレーテが厨房の入口に立っておりました。
「奥様。今日でございます」
覚えていらしたのです。
二人で蔵へ下りました。バルトも来ました。三人で扉を開けて、灯りを二つ入れました。
わたしは一組目の札を確かめて、いちばん上の一枚を持ち上げました。
――ああ。
折り目に沿って、白い粉が出ておりました。指でこすると取れますが、取れたところの下が、うっすら灰色になっております。匂いを嗅ぐと、甘いような、あの匂い。
二組目を開けました。
油紙は仕事をしておりました。外からの水は入っておりません。灰袋も、まだ乾いております。それなのに、二枚目と三枚目のあいだの折り目に、同じ粉が出ておりました。
三組目を開けました。
縫い代を片返しにして、重なりを一枚減らしたものです。重なりの厚いところから来るという読みは、当たっておりました。厚いところには何もありません。
代わりに、平らなところから来ておりました。
◇
わたしはしばらく、動けませんでした。
三組とも駄目でございます。十日で。
外から水が入ったのではありません。油紙は効いておりました。灰も効いておりました。詰め方も、仕立ても、思いつく限りのことをして、それで十日でございます。
――中に、最初から入っていたのだわ。
仕立てたときに、布はもう水を持っていた。その水は、王都なら乾く量です。この土地では乾かない。乾かない水を閉じ込めて、蓋をして、置いた。
油紙も灰も、外からの水を止める道具です。中の水を出す道具ではありません。
止める向きが、逆でございました。
◇
王都では、これで足ります。
王都の冬は乾いております。仕立てたときに布が持っていた水は、櫃の中でもゆっくり抜けるのです。抜けた水は油紙の外へ出ていく。油紙は水を通さないと申しますが、正しくはありません。液体の水こそ通しませんが、空気に混じった水は少しずつ通ります。
少しずつ通る、というのが要でございました。
王都なら、その少しで足ります。中の水が少ないからです。この土地では足りません。中の水が多いうえに、外の空気も水で一杯なので、出ていく先がありません。
同じ道具が、片方の土地では働いて、片方では働かない。
道具が悪いのではありません。前提が違うのです。前提を確かめずに道具だけ持ってきた者が、十日で三組を駄目にいたしました。
わたしでございます。
◇
「奥様」
バルトが灯りを下げて、こちらを見ておりました。
「なんとも、その、なんと申し上げてよいか」
「いえ。分かってようございました」
声が思ったより低く出て、自分で驚きました。
悔しいのだと思います。悔しいという言葉を使ったのは、たぶん何年ぶりかでございます。この十年、悔しいと思ったことがありませんでした。腹が立つこともありませんでした。ずっと、そういうものだと思って手を動かしておりました。
布に負けたのは、初めてでございます。
人に何を言われても手は動きますが、布が駄目になると、手が止まります。
◇
グレーテは、何も言いませんでした。
三組を順に見て、粉を指で取って、匂いを嗅いで、また戻す。わたしがやったのと同じことを、同じ順でなさいました。
それから、蔵の壁の白い線を見上げて、しばらく立っておられました。
「グレーテさん」
「はい」
「この土地では、どうやって布をしまうのですか」
答えは、返りませんでした。
グレーテは灯りをバルトに渡して、先に階段を上がっていかれました。足音が遠くなって、鉄の扉のところで止まって、また動きました。
残されたわたしは、三組を畳み直しました。
駄目になったものでも、畳んで置くのと放るのとでは違います。放った布は、次に見るときに何がどうなったのか分からなくなる。畳んでおけば、来年また見られました。
◇
その日は、ほかのことが手につきませんでした。
帳面を開いて、何を書けばよいのか分からず、閉じました。開いて、また閉じました。
三組で分かったのは、「これでは駄目だ」ということだけでございます。何をすればよいかは、一つも分かっておりません。
考えられることを書き出してみました。
一、仕立てる前に、もっと乾かす。何日かければ足りるのか、見当がつきません。この土地に、乾く場所がありません。
二、水を通さない布で包む。包めば、中の水も出られません。同じことです。
三、しまわない。使い続ければ腐りません。ただ、支度というのはしまうものでございます。しまわない支度は、支度ではありません。
三つとも、行き止まりでございました。
行き止まりの前で、わたしは自分の手を見ました。
指の腹が硬うございます。針を持つ指は、そこだけ皮が厚くなります。十年でこうなりました。この手は、縫うことなら大抵できます。ほどくことも、直すことも、寸法を測らずに見当をつけることも。
できないのは、布そのものを作ることでございました。
わたしは縫い手です。織り手ではありません。布は買うもので、買ってきたものをどう仕立てるかが仕事でした。布そのものを疑ったことがなかったのです。
王都ではそれで足ります。買える布が、王都の空気に合っているからでございます。
ここでは合っておりません。合っていない布を、いくら上手に仕立てても、合いません。
◇
夜、工房の灯りを消して、部屋へ戻ろうと廊下へ出ました。
窓の板の隙間から、風の音がしております。雪はもう根雪になって、中庭の橇の跡も消えました。春まで、ここから出られません。
春までに、答えが出るのでしょうか。
出なければ、わたしの櫃も、あの三つと同じところへ並ぶことになります。マルグリット様、イルゼ様、アンナ様、そしてユーリア。四つ目の櫃でございます。
旦那様が日取りを決めないのは、たぶん、それをご存じだからです。
◇
翌朝、工房の扉を開けました。
床に、布が一反置いてありました。
見たことのない織りでございます。羊毛ですが、目が粗い。粗いのに、手に取ると重い。撚りが甘くて、糸が太く、指で押すと沈んで、離すとゆっくり戻ります。
厚みの真ん中まで指を入れて、止めました。
温こうございました。
指が温いのではありません。布が温いのです。
水を持っている布は、指の熱を奪います。奪うので冷たく感じます。この布は奪いません。ということは、水を持っていない。
この土地の空気の中に、十日どころか、たぶん何年も置いてあったはずの布が、でございます。
わたしは布の端を持ち上げて、光にかざしました。
透けます。目が粗いので、向こうが見えるほどです。王都なら、こんな布は褥布に使いません。安物だと言われます。
その安物が、水を持っておりません。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
油紙も灰も、外から入る水を止める道具です。中に入っている水を出す道具ではありません。仕立てたときに布が持っていた水は、王都なら乾きます。この土地では乾きません。止める向きが逆でございました。
次話、扉の前の布を置いていったのが誰かは、聞かなくても分かります。ユーリアは洗い場へ行きます。
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