第四章 星霜の繭の歌 4
出立前夜、禊の離宮の一室で、セラフィーナは最後の祈りを捧げていた。
いや、それはもはや祈りではなかった。
教えられた定型句をなぞるのではなく、彼女は初めて、自分自身の言葉で「誰か」に語りかけていた。
「……あなたは、ずっとひとりで待っていたのですか」
祭壇に供えた月光花が、淡く光を返す。
「千年前から、竜の代わりに梯子を守って。誰も本当のことを知らなくて。生贄と呼ばれる娘たちが訪ねてきても、血を啜るどころか、ただ見送るだけだったのですね」
彼女は、歴代の巫女たちの記録を思い返していた。百年前の巫女は洞窟に入ったあと、どうなったのか。公式には「竜神と合一した」とされるが、遺体は戻ってこない。ただ、洞窟の奥から帰ってきた者はいないという事実だけが伝えられていた。
もしかすると、歴代の巫女たちはみな、洞窟の奥で真実を知ったのかもしれない。知ったうえで、それでもウツロイを救えず、ただ彼とともに歌い、看取り、あるいは自らも洞窟のなかで生涯を終えたのか。
(私は、どうすればいいのでしょう)
彼女の心のなかには、まだ迷いがあった。幼い頃から積み上げてきた使命の重みは、数日のあいだに知った真実ごときで、簡単に消えるものではない。
「それでも、私は行く」
彼女は立ち上がり、祭壇の蝋燭を吹き消した。
「あなたに会うために。そしてもし、あなたが望むなら──」
そのとき、扉が荒々しく開かれた。
「巫女様!」
ヴォルフガング副隊長だった。いつもの冷静さは影を潜め、顔には怒りと焦りが浮かんでいる。
「いけません、すぐにご出立の準備を」
「……なにを。儀式まではまだ五日あります」
「予定が変わりました。先ほど聖堂騎士団本部で緊急会議が開かれ、儀式を前倒しすることが決定されました。明後日の未明、巫女様には神梯嶺へ発っていただきます」
あまりにも露骨な展開だった。
セラフィーナは息を呑み、副隊長の目をまっすぐに見返した。
「前倒しとは、どういう理由で」
「不審者による儀式妨害の危険が高まっているためです。これ以上の情報漏洩を防ぎ、しかるべき神事が滞りなく執り行われるためには、予定を繰り上げるほかない」
「しかし、そのような重要な決定を、私自身には何の相談もなく?」
「巫女様はすでに神に捧げられたお身体。儀式の日取りに関しては、神の代理たる我々聖堂騎士団が責任をもって決定いたします」
ヴォルフガングの声には、もはや一片のためらいもなかった。彼は教義を守るという大義名分のもとで、自分たちの権威を脅かす真実を、力尽くで封じようとしている。
「わかりました」
セラフィーナは静かに答えた。
「では準備をいたします。明朝、出立ということでよろしいですか」
「……明朝?」
「今すぐは無理です。神への最後の祈りと、禊の支度が必要です。それに、夜の神梯嶺は危険すぎます」
ヴォルフガングはしばらく考え、渋々うなずいた。
「よろしい。明朝、夜明けの鐘と同時に出立します。それまでごゆるりとお祈りください」
そして彼は、部屋を去る間際にこう付け加えた。
「くれぐれも、ひとりで離宮を出たりされませぬよう。警護の者を、外に配置しておりますので」
扉が閉まる。
セラフィーナは深く息を吸い込み、決意を固めた。
(夜明け前に、ここを抜け出す)
彼女はすでに、自分のなかで結論を出していた。聖堂騎士団の監視の目を盗み、待ち合わせ場所の廃村へ向かう。そしてレンと合流し、自分たちの足で神梯嶺の洞窟へと向かう。
たとえそれが聖堂騎士団への明確な反逆であろうと。
『星霜の繭』の歌は、まだ完全ではない。けれど、彼女のなかでその旋律がどんどん膨らんでいくのを感じていた。あの歌は、本当はウツロイに伝えるためのものだ。自分のなかに閉じ込めておくべき歌ではない。
「待っていてください」
彼女は窓の外に広がる夜空に囁いた。
「今度は、間違った形じゃないやり方で、会いにいきますから」




