第四章 星霜の繭の歌 3
レンに異変を最初に知らせたのは、ガブリエル老司書補の慌てた様子だった。
「若旦那、大変だ。聖堂騎士団が、昨日からお主を探している。正式な逮捕状こそ出ておらぬが、実質的には拘束されるのも時間の問題じゃ」
ガブリエルは、薄暗い禁書庫の片隅でレンに耳打ちした。
「地下聖堂への侵入がばれたんですか」
「それだけじゃない。どうやら《昇華の儀》を妨害する危険分子として、騎士団内部で報告が上がっておるらしい。おそらく、強硬派のヴォルフガング副隊長あたりが手を回したのだろう」
「……猊下は」
「もちろん大司教様は反対しておられる。じゃが、聖堂騎士団は大司教といえども完全に掌握できる組織ではない。戦時中から続く独立色の強い部隊でな。とくに儀式の警護に関しては、大司教の権限よりも先例と慣習が優先される」
レンは羊皮紙の束を鞄に詰め込みながら、素早く考えを巡らせた。彼が今持っている情報のなかで、最重要なのは「星霜の繭」の魔導音響としての性質だ。そしてそれを歌えるのがセラフィーナだけであるという事実。
(まだ彼女に、この分析結果を伝えていない。今夜、祠で会う必要がある)
「ガブリエルさん、ひとつお願いがあります。聖堂騎士団の目を、半日ほど逸らせませんか」
「なんじゃと」
「僕が北の第二階層へ逃げた、という偽の情報を流してほしいんです。第二階層の古書市場で竜に関する文献を探している、と」
「……お主、まさかそのあいだに」
「はい。洞窟へ発つ準備をします」
ガブリエルはしばらくレンを見つめ、やがて自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「エーベルハルトめ……とんでもない若者をこっちに寄越しおって」
「すみません」
「謝るな。こうなったら、わしも最後まで付き合う」
老司書補はそう言って、棚の奥から小さな布袋を取り出し、レンの手に握らせた。ずしりと重い。
「なんでございますか、これ」
「聖堂騎士団の詰め所で働く下働きの若い衆が、わしの昔の教え子でな。こういうときのために、少々蓄えがある。金だ。足しにしろ」
「でも……」
「わしのような老いぼれは、若い者が無茶をするさまを、ぬくぬくと見物するしか能がない。せめてもの楽しみだと思え」
レンは深く頭を下げ、布袋を外套の内側にしまった。
その日の午後、レンは大神殿の片隅にある、もう誰も使っていない古い鐘楼に身を潜めていた。ガブリエルが教えてくれた隠れ場所である。
鐘楼の最上階からは、王都の全景が一望できた。七つの尖塔が青空を背景に聳え立ち、街々の路地には無数の人の営みが息づいている。西の空にはすでに夕焼けがにじみ始め、夜が近いことを告げていた。
彼は膝の上に開いたノートに、ここ数日間の研究成果をまとめつつあった。
1. 洞窟にいるのは竜ではなく、ウツロイという植物系精霊である
2. 本来の儀式は「花の蜜」と「歌」による平和な交感だった
3. 「星霜の繭」は古代の魔導音響で、精霊との対話を目的とする
4. 正しい発声で歌えば、ウツロイと意思疎通できる可能性がある
5. ただし、古代音の再現はセラフィーナ以外には不可能
(足りない)
レンはペンを置き、額を揉んだ。
理論はできた。しかし、肝心の「ウツロイが何を望んでいるか」がわからない。対話ができたとして、その先はどうするのか。もし精霊が本当に「昇華」を望んでいるなら、儀式の本質は変わらない。ただ生贄が血から歌に差し替わるだけのことだ。
だが、石板の追記にはこうあった。
《花がもし、孤独に枯れゆくならば、そのときこそ梯子は断たれん》
これは脅しではない。警告でもない。ただの事実の記述だ。千年を生きた精霊が、孤独に耐えかねて消えようとしている。梯子が断たれるとは、おそらくこの大陸の魔素循環そのものが崩れるという意味なのだろう。ウツロイは、死んだ竜の心臓の上で、世界の均衡をひとりで支え続けてきたのだ。
だとしたら、彼に必要なのは「種を残すこと」ではないか。
レンは企画案のラストシーンを思い描いた。小瓶に採取された記憶の種。鉢植えの白い花。赤ん坊の手に触れる金色の魔素。
(まだ、その構想を現実に落とし込めていない)
だが、それはすべて、実際にウツロイと対話してみなければわからないことだった。こちらの想像が正しいかどうかは、結局、本人に訊くしかない。
鐘楼の窓から夕日が差し込む。
そろそろ、祠へ向かわねばならない時刻だった。聖堂騎士団の監視が厳しくなっていることは承知していたが、今夜だけはどうしてもセラフィーナに会う必要がある。 「星霜の繭」の分析結果を伝え、そして──洞窟へ出立する最終決断を、彼女自身に委ねるために。
レンが立ち上がったときだった。
鐘楼の扉をノックする音がした。しかし、それは人間の手によるものではなかった。
コン、コン、と乾いた音。まるで硬い嘴でつつくような──。
(まさか)
扉を開けると、そこには一羽の鴉がいた。異様に黒く、しかも身体が半透明に透けている。記憶を喰らう魔獣、忘れ鴉だ。
その嘴には、一輪の月光花がくわえられていた。
花は生きていて、花弁のあいだに折り畳まれた紙片を抱いている。レンがそっと取り上げると、忘れ鴉は無言で羽ばたき、夕闇のなかへと消えた。
紙片には、セラフィーナの筆跡でこうあった。
《今夜、祠には来ないで。聖堂騎士団があなたを追っています。》
《かわりに、あさっての夜明け、神梯嶺のふもとの廃村で待ちます。》
《巡礼古道の分岐点、女神像の手前です。》
《私は一人でここを抜け出します。》
《必ず来てください。一緒に、洞窟へ行きましょう。》
レンは手紙を読み終えると、そっと胸元にしまった。
彼女が自分で決断した。誰に命じられたのでもなく、生贄としてではなく、ひとりの人間として、洞窟の真実を確かめに行くことを。
それに応えられなくて、なんのための知識だろうか。
「必ず、行く」
レンは呟き、鞄を背負った。
聖堂騎士団の包囲網をかいくぐり、王都を抜け出す算段を、彼はもう始めていた。




