第四章 星霜の繭の歌 2
その同じ朝、セラフィーナは《禊の離宮》の一室で、身支度を整えていた。
禊の離宮は大神殿の中庭に面した小ぶりな宮殿で、かつては巡礼に来た王族の宿泊所だった。今は《竜の巫女》に選ばれた者のためにしつらえられ、出立までの七日間をここで過ごすのが習わしとなっている。
部屋の窓からは、中庭に咲く月光花の群落が見えた。夜のあいだ咲き誇っていた花々が、朝日を受けてひとつひとつ、ゆっくりと花弁を閉じていく。その様は、まるで世界が一夜の夢から醒めていくかのようだった。
(あと六日)
彼女は鏡の前に座り、銀の髪を梳いていた。鏡に映る自分の顔は、驚くほど無表情で、まるで他人の顔のようだ。
昨晩、レンに打ち明けた「星霜の繭」の歌。あの歌を修道院で最初に教わったときのことを、彼女はよく覚えている。五歳の冬の夜、最年長の老修道女が、幼い彼女を膝に抱きながら口ずさんでくれたのだ。
「怖い夢を見た夜は、この歌を歌うのよ。そうすれば、どこかの誰かが聴いていてくれるから」
その「誰か」が誰なのか、長いあいだわからなかった。竜神様だと教えられたこともあった。しかし、あの歌の響きは、あまりにも優しく、あまりにも哀しく、畏怖すべき神に捧げるものとは思えなかった。
(ウツロイ)
昨夜初めて、その名に意味が与えられた。千年の孤独を抱える、花の精霊の名前だと。
彼女は目を閉じ、そっと歌い出した。
「星霜の子らよ……光の繭に眠れ……」
声は、かすれていた。けれど、不思議と音程は正しかった。幼い頃に身体に染み込んだ旋律は、失われていなかったのである。
「ウツロイよ……ウツロイよ……」
そのときだった。
部屋の隅の花瓶に生けてあった月光花の一輪が、ふっと花弁を開いたのだ。
月光花は朝に閉じ、夜に開く。それが自然の理である。なのに今、ついさっき閉じたばかりの花が、彼女の歌に応えるようにして再び開き、かすかに震えている。
(……聴いているの?)
セラフィーナは歌を止め、花に近づいた。彼女の指が花弁に触れるか触れないかの瞬間、花の奥から蒼白い燐光が立ち昇り、ふわりと部屋のなかに漂った。
それは魔素の光だった。だが、人間でも獣でもない、もっと静かで、もっと古い生命の気配を湛えている。
昨日、任命式で額に垂らされた聖油の冷たさ。そのとき身体の奥で鳴った警告。それらすべてが、この光の正体と繋がっているように感じられた。
(あの聖油は……この花の存在を抑え込むためのものだったのでは?)
彼女のなかで、何かが急速に形を成そうとしていた。聖油は代々の巫女が受け継いできたものだという。だが、もしそれが、歴代の巫女の魔素感応能力を鈍らせるためのものだったとしたら。
巫女たちは誰も、洞窟の真実に気づけなかった。気づかされなかったのだ。
そのとき、扉を叩く音がした。
「セラフィーナ様。聖堂騎士団のヴォルフガング隊長がお見えです。緊急のご用向きとか」
彼女は花から手を離し、平静を装って答えた。
「お通しして」
ヴォルフガング・アーデルハイトは、聖堂騎士団の副隊長を務める壮年の騎士だった。年の頃は四十半ば、鍛え上げられた体躯に銀の鎧を纏い、腰には代々受け継がれた魔導剣を佩いている。その顔は武人らしく精悍だが、目は異様なほど冷たかった。
「早朝の訪問、ご無礼をお許しください、巫女様」
「構いません。ご用向きとは」
「まずはご尊父、ローゼンクロイツ公爵閣下のご容態についてです」
セラフィーナの指が、かすかに強張った。
「父が?」
「はい。昨晩から急にご病状が悪化され、現在は王都の御屋敷で療養されております。命に別状はありませぬが、しばらくはご移動も難しいかと。つきましては、出立前のお目通りはご容赦いただきたく」
セラフィーナは伏し目がちにうなずいた。
(父上が……)
もともと会えるとは思っていなかった。だが、こうして正式に断られると、それなりに応えるものがあった。
「それともう一件、これは内密のご報告ですが」
ヴォルフガングは声を潜め、一歩前に進んだ。
「現在、大神殿内で《昇華の儀》を妨害しようと目論む不審者が潜入しているとの情報が入りました」
「不審者、ですか」
「身元はほぼ割れております。地方貴族の三男坊で、年は十五。正式な許可なく地下聖堂に侵入し、聖なる石版を汚した罪で現在追跡中です。もし巫女様のお耳に、このような不審な若者から接触があった場合は、即座に我々にお知らせいただきたい」
セラフィーナは、動じなかった。少なくとも表情には出さなかった。
「かしこまりました」
「くれぐれもお気をつけください。奴は非常に狡猾で、しかも特殊な眼の持ち主。人を惑わす異能を使って、巫女様に近づくかもしれません」
「ご忠告、痛み入ります」
ヴォルフガングは一礼し、部屋を去った。
ひとりになると、セラフィーナは長く息を吐いた。
(あの人は、もうすでに危険な立場にある)
聖堂騎士団がレンを「不審者」と断定し、追跡している。大司教の庇護があるとはいえ、宗教権力と軍事力をあわせ持つ騎士団を相手に、いつまでも持ちこたえられるはずがない。
今夜、祠で会う約束をしている。だが、おそらく騎士団の誰かが、あの庭園を見張っているだろう。
(どうすれば……)
彼女は再び、花瓶の月光花に目をやった。開いた花はもう閉じてはいなかった。
そして彼女は、ある考えに至る。
(この花に、託せるかもしれない)
彼女は机に向かい、短い手紙をしたためた。そして便箋を折りたたむと、月光花の根本にそっと差し挟む。花は、包み込むように花弁を窄めた。
聖堂騎士団に察知されない方法で、レンに情報を渡す。そんな芸当が可能なのかどうかはわからない。でも、この花はすでに「誰か」と繋がっている気がしてならなかった。




