第四章 星霜の繭の歌 5
その夜、鐘楼でレンは、グレゴリウス大司教と最後の面会をしていた。
老聖職者は、レンがまとめた研究成果のノートを読み終えると、深い沈黙のあと、静かに口を開いた。
「……信じられぬ話だが、しかし、これですべての矛盾が説明できる。なぜ歴代の巫女が誰ひとり戻らなかったのか。巫女たちは死んだのではない。洞窟の奥で真実を知り、戻ることを選ばなかったのだ」
「あるいは、戻れなかったのかもしれません。聖油の効果で魔素感応を抑えられていたとしたら、ウツロイの声をはっきりと聴くことができず、対話を成立させられなかった」
「なるほど。代々の巫女は不全のまま洞窟で生涯を終え、それでもなお、歌を捧げ続けた……。なんという悲劇だ」
「これを悲劇のまま終わらせないために、僕は明日、セラフィーナ様と洞窟へ向かいます」
グレゴリウスは目を閉じた。年齢よりも深く刻まれた皺が、魔導灯の光の下でいっそう濃く見える。
「聖堂騎士団を敵に回すことになる。いや、それだけではない。この大陸の教会組織すべてを敵にするかもしれん」
「わかっています」
「ヴァレンタイン家にも累が及ぶ。お主の父上も兄上たちも、反逆者の一族として断罪される」
「……それでも」
レンは自分の手のひらを見つめた。屍衣谷で負った爛れは、もうかさぶたになっている。洞窟のなかで、この手が何に触れるかはわからない。それでも、引くわけにはいかなかった。
「それでも、行くんですな」
「はい」
グレゴリウスは突然、笑みを浮かべた。それは諦観でも嘲笑でもなく、ただ懐かしいものを見るような、不思議な笑みだった。
「昔、儂にもそんな頃があった。真実のためならすべてを擲てると本気で思っていた。だが儂は結局、権力の階段を上ることを選んだ。そして大司教になった。いま思えば、あのときの儂が欲しかったのは、お主のような若者に出会うことだったのかもしれん」
彼は椅子から立ち上がり、壁にかかった古いタペストリーをめくった。その奥に、小さな隠し戸がある。戸を開けると、一振りの短剣が収められていた。
「これは、かつて統一戦争の時代に、第七神の巫女が護身用に携えたものだ。刃に刻まれた呪文は、いかなる魔獣の生命力をも一時的に麻痺させる。洞窟のなかに何が潜んでいるかはわからん。持っていけ」
「そんな貴重なものを……」
「いいから」
グレゴリウスは短剣を鞘ごとレンに差し出した。
「行くなら最後までやり遂げろ。もしものことがあれば、すべての責任は私が取る。大神殿の大司教として、千年の嘘に幕を引く覚悟はできている」
レンはその短剣を受け取り、深く頭を下げた。
「ご恩は、必ず」
夜明けまであと一刻──。
王都の東門が開くのは、夜明けの鐘が鳴ってからだ。しかしレンは、ガブリエルから教えられた秘密の通用口を使い、誰にも見咎められることなく城壁の外へと抜け出していた。
聖堂騎士団の追跡は、まだ彼の偽装に引っかかっているらしい。だが、それも時間の問題だろう。
東の空が白みはじめ、大傾斜大陸の稜線がかすかに浮かび上がる。その頂きにそびえる神梯嶺は、朝焼けのなかで赤銅色に染まり、まるで巨大な祭壇のように見えた。
レンは馬を駆り、巡礼古道の分岐点を目指した。
道の両脇には、朝露に濡れた月光花が無数に咲いていて、その白い花弁が、朝日を受けて一斉に輝きはじめた。まるで、道を示すかのように。
(待っていてください、セラフィーナ様)
(そしてウツロイ)
(もうすぐ、あなたの孤独に終わりを告げる朝が来る)
レンの背後で、王都の夜明けの鐘が鳴り響いた。それはこれから始まる長い一日への、静かな、しかし確かな幕開けの音だった。




