第五章 星霜の繭 1
巡礼古道の分岐点に立つ古びた女神像が、朝霧のなかから浮かび上がったとき、レンは馬の手綱を引き、深く息を吐いた。
石像は苔むし、顔の半ばを崩していたが、それでも両手で掲げ持った円環──尾を食む蛇の象徴──だけは、くっきりと朝陽を受けていた。その足元に、ひとつの人影がある。
濃紺の外套を羽織り、フードを目深にかぶっている。だが、その立ち姿だけでレンにはわかった。
「セラフィーナ様」
人影が振り向き、フードを下ろす。露わになった銀の髪が、朝風にふわりと流れた。
「レンフリート様。ご無事で」
「そちらこそ。どうやって離宮を?」
「古い勝手口がひとつ、修道女しか知らない抜け道になっていました。警護の騎士たちはみな表門に集中していましたから」
セラフィーナの声は落ち着いていたが、その目にはかすかな疲労の影が滲んでいる。禊の離宮をたったひとりで抜け出すことが、どれほどの勇気を要したか、レンには想像もできた。
「追手は」
「おそらくもう、こちらへ向かっているはずです。夜明けと同時に表門を出立する手はずでしたから、私がいないとわかればすぐにでも」
「なら、先を急ぎましょう」
レンは鞍の後ろを空け、彼女に手を差し伸べた。セラフィーナは一瞬ためらい、それからその手を取る。彼女の指は驚くほど冷たかった。
「馬は一頭だけですか」
「すみません、急いでいたのでこれしか」
「いいえ。ふたり乗りなら、むしろ好都合かもしれません」
「というと」
「巡礼古道のこの先は、道幅が狭まり、やがて山羊道のようになるそうです。二頭だと進めない区間があると、修道院で聞いたことがあります」
レンはうなずき、軽く手綱を打った。栗毛の馬は嘶き、朝靄の立ちこめる古道を駆け出した。
神梯嶺は、大傾斜大陸の最高峰だった。
標高は優に五千メートルを超え、その山体は七層の階層構造をなしている。まるで大陸全体をひとつの山に凝縮したかのようなこの霊峰は、麓から熱帯性の照葉樹林が始まり、標高を上げるごとに落葉広葉樹林、針葉樹林、さらには魔素を吸って育つ異形の灌木帯へと変わり、やがては草木ひとつない岩稜帯へと至る。
レンとセラフィーナが最初に足を踏み入れたのは、山麓を取り巻く深い霧の森だった。
森のなかは、昼なお暗い。巨大な照葉樹の梢が幾重にも折り重なり、陽光を遮っているのだ。その幹には、びっしりと青白く光る苔が這い、足元の腐葉土からは、かすかに甘い腐敗臭が立ち昇っていた。屍衣苔とは別種の、しかしこれもまた魔素を吸う変異種に違いない。
「このあたりは《霧隠れの森》と呼ばれています」
セラフィーナが馬上から言った。
「昔は、竜を目指す巫女たちが、ここで最後の身を清めたそうです。奥に古い泉があって」
「巫女たちは、みなこの道を通ったんですね」
「ええ。百年にひとり。けれどここが、人が住む最後の場所。この森より先は、もう人の領域ではありません」
彼女の声に、かすかな震えが混ざった。畏怖か、それとも昂揚か、おそらくその両方だったろう。
道は次第に細くなり、ついには馬を降りて歩くほかなくなった。レンは手綱を引き、セラフィーナはその後ろに従く。朽ちかけた石畳が、ほんのわずかに古道の名残を留めているが、それもやがて途切れ、あとは根と苔に覆われた獣道ばかりになった。
その獣道の途中で、レンの目が、ふと足を止めた。
「……この先、魔素の流れが変わってます」
「危険ですか」
「いえ、危険というより……まるで、何かに導かれているような」
彼の眼には、大気中の魔素がゆるやかな一本の帯となって、山頂へ向かって吸い寄せられていくのが見えていた。自然の潮流ではなく、人為的に整えられた流れだ。いや、人為的かどうかもわからない。これはもしかすると、山そのものが持つ意志なのか。
「ついてきてください。この流れに沿って行けば、おそらく洞窟に着くはずです」
ふたりは黙々と山道を踏んでいった。
標高が上がるにつれ、森の様相は一変した。
照葉樹は姿を消し、代わりに針葉樹が立ち並ぶようになる。しかし、その針葉樹が異様だった。幹はねじくれ、枝はまるで何かを掴もうとする手のように四方へ伸び、葉は紫がかった銀色に輝いている。魔素を吸いすぎて変異した樹木たちだ。
さらに登ると、今度は奇妙な灌木の群生地帯に入った。
灌木といっても、背丈はレンの三倍ほどもある。枝にはびっしりと無数の小さな白い花が咲いていて、一見すると美しいのだが、その根本には夥しい数の小動物の骨が散らばっていた。鳥、鼠、あるいはもっと大きな獣の骨まで。
「食樹です」
セラフィーナが低い声で言った。
「枝に咲く花から麻痺性の花粉を撒き、動けなくなった獲物を根で取り込む。修道院の図鑑でしか見たことのないものでしたが、まさか本当に……」
「触れなければ危険はありません。でも、あまり長居はしないほうがいい」
レンは魔素の流れを見極めながら、食樹の密集地帯を抜ける最短のルートを選んで歩いた。彼の目さえあれば、食樹が獲物を感知する魔素の触覚を避けることは難しくなかった。
灌木帯を抜けたあたりで、セラフィーナが突然立ち止まった。
「レンフリート様、あれを」
彼女の指さす先には、朽ちかけた石の祠があった。
領都のものや大神殿の庭園のものより、ずっと古く、そして小さい。積まれた石は苔蒸し、中央に祀られた蛇の石像も半ば崩れ落ちている。にもかかわらず、その前にだけ、かすかに新しい花が供えられていた。
月光花だ。しかも、まだ瑞々しい。
「つい最近、誰かがここに」
セラフィーナがそう言いかけたときである。
灌木の陰から、ひとりの人影が現れた。
老人だった。腰は折れ曲がり、白いあごひげが胸まで伸びている。着ているものは元が修道士の僧衣だったらしいが、今は襤褸切れ同然だ。片手に松葉杖、もう片方の手には摘んだばかりの月光花の束を抱えている。
「……おや」
老人は、濁った目をしばたたいた。
「新人かね。めずらしい。何代ぶりかの」
「あなたは」
「わしは先代の巫女付きの修道士だった者だ。名はとうに捨てた。先代の巫女様をこの山まで案内して、それっきり、下山する気が起こらなくてな」
レンとセラフィーナは顔を見合わせた。
「先代の巫女様は、どうなられたんですか」
「わからん。洞窟に入られたきり、出てこられなんだ。もう百年近くも前の話よ」
老人はこともなげに言った。百年前の出来事を昨日のことのように語るその口調に、レンは思わず訊き返す。
「あなたは……その、おいくつで」
「いくつだったかのう。この山に入ってから、どうも歳をとらなくなった。魔素の影響か何かじゃろう。どうでもよいが」
老人は月光花を祠に供えながら、セラフィーナのほうを振り返った。
「お嬢ちゃんが、今度の巫女様か。なら、これから洞窟へ行くのかね」
「……はい」
「やめときなさい。やめられるなら」
その声は、ふいに深い哀しみを帯びた。
「わしは先代様を見送った。あれほど気高く、歌のうまい巫女様は他におらなんだ。しかしそれでも、あの御方は戻られなんだ。洞窟の奥には、竜などおらぬよ。おるのは、あれは」
「ウツロイ、ですね」
レンの言葉に、老人の目がはじかれたように見開かれた。
「……その名を、どこで」
「地下聖堂の原本です。石板に追記がありました。千年前の誰かが、竜の死とウツロイの存在を後の世に遺そうとしたんです」
老人はしばらく無言でレンを見つめ、やがてかすかに笑った。
「なるほど。今度の連れは、目のいい兄さんか。だったら、あるいは」
「あるいは?」
「先代様が遺したものがある。役目を終えたならば、次の巫女様に渡してくれと言われていてな。百年、ここで待っていた甲斐があったというものよ」
老人は松葉杖を引きずりながら、祠の裏手へと歩いていった。そして石組みの隙間から、油紙に包まれた一冊の小さな手帳を取り出した。
「先代巫女、ルチア様の日記だ」
セラフィーナがその手帳を受け取り、ゆっくりと開く。
中には、細かい文字でびっしりと何かが書き綴られていた。最後の数ページだけが、明らかに慌てた筆致で、インクも飛び散っている。
《私はついに、これが竜ではないと知った。》
《これは花だ。竜の心臓の上に咲いた、一輪の異界の花。》
《この子の名はウツロイというらしい。》
《この子は私に歌ってほしいと願う。ただ、ずっと。》
《しかし私は、この子の言葉を完全に聴き取ることができない。》
《額に注がれた聖油が、魔素の感応を鈍らせている。》
《それでも私は、残された一生をかけてこの子と歌うと決めた。》
《次の巫女へ。どうかこの聖油を受け継がないで。》
《そしてもし、この子と真に対話できる者が現れたなら……》
《どうか、お願い。》
《この子を、孤独のまま枯れさせないで。》
日記はこれで終わっていた。
セラフィーナはページを閉じ、目を伏せた。長い睫毛が震えている。
「私の……聖油も」
「はい。おそらくあなたに注がれた聖油も、魔素感応を抑え込むためのものです。歴代の巫女たちはみな、声を聴こうとしながら、完全には聴けなかった」
「それでも先代様は、百年をあの洞窟で」
「ウツロイとともに、歌い続けたんでしょう。不完全な対話のまま、それでも」
老人は、遠くを見る目で山の上の方を見やった。
「ルチア様はな、それはそれは嬉しそうに歌っておられた。洞窟のなかから、いつも歌が聞こえてきてな。ふたりぶんの歌声が、夜の山に響いておった」
「ふたりぶん」
「そうじゃ。ひとつはルチア様の声、もうひとつは花の精霊の声じゃろう。歌は、対話なのだとルチア様は言っておられた。あの子にとって歌は、唯一の言葉なのだと」
セラフィーナは手帳を胸に抱きしめた。
「……行きます。私が、あの子と話す」
「しかしな、お嬢ちゃん。聖油のせいで、お嬢ちゃんもまた」
「いいえ」
セラフィーナは顔を上げた。その青い瞳の奥に、静かな確信が宿っている。
「私は五歳のとき、老修道女から子守唄を教わりました。その歌は、聖油の力をなぜかすり抜けて、ずっと私のなかに残っていた。つい昨夜、レンフリート様から教えられるまで、その歌がウツロイの歌だとは知りませんでした。でも、今ならわかります。あの歌は私のなかで、ずっと、誰かに届くのを待っていたんです」
「星霜の繭……」
レンが呟くと、セラフィーナは彼に向かってほほえんだ。
「ええ。だからきっと、大丈夫」
老人はしばし沈黙し、それからゆっくりと身体を引いた。
「そうか。なら、存分に歌ってやってくれ。わしはこれで、役目を終えたようじゃ」
「あなたはどうされるんです」
「さあの。やっと眠れるかもしれんな」
そう言って、老人は祠の影へと姿を消した。二度と会うことはないだろうと、レンはなぜだか確信した。




