第五章 星霜の繭 2
神梯嶺の中腹、森林限界を超えたあたりで、ふたりは一頭の馬を解き放った。
ここより先は、もはや馬が進める道ではない。岩と礫ばかりの荒れ果てた斜面に、かろうじて踏み跡が刻まれているだけだ。
セラフィーナは岩に手をかけ、息を切らしながら登る。修道院の生活で身体が鍛えられているとはいえ、さすがに標高三〇〇〇メートルを超える山道はこたえた。しかし彼女は一度も弱音を吐かず、ときにレンに手を引かれながら、黙々と歩を進めた。
周囲の岩肌には、奇妙な幾何学模様が刻まれている。
それは千年以上前の古代文字であり、古ザクセン語の祖形にあたる言語だった。統一戦争以前の、もっと古い時代に信仰されていた原始梯子教の祈祷文だ。レンの目は、その文字から立ち昇るかすかな魔素の燐光を捉えている。巡礼古道のこの区間は、かつては聖地へ向かう参道であり、文字自体が魔導を帯びていた。
やがて、ふたりは岩稜帯のさらに奥、巨大な崖にぽっかりと口を開けた洞窟の前に立った。
《昇華の門》──。
洞窟の入口は、高さが十メートルはあろうかという巨大なアーチを描き、その周囲の岩壁には無数の古代文字と、尾を食む蛇の浮き彫りが施されていた。浮き彫りは、千年の風雪に削られながらも、いまだその造形を留めている。
門の手前には、七段の階段が刻まれている。一段ごとに異なる神の神聖文字が彫り込まれ、第七段目の前に、ふたりは立った。
「ここから先は、生贄の巫女だけが入ることを許される場所」
セラフィーナは言った。
「私は十七年間、このためにだけ育てられました。父とも、家族とも、普通の幸せとも無縁のまま。それでも、それは仕方のないことだと、ずっと思ってきました。私には使命がある。それだけで、じゅうぶんだと」
「でも、今は」
「はい。今は、違う」
彼女は階段の前に立ち、そっと自分の額に手をやった。任命式で聖油を垂らされた場所だ。
「もし聖油が、私の耳をふさぎ、ウツロイの声を聴かせまいとするものなら」
彼女は指先で額をなぞり、それから自分のなかの魔素の流れに意識を集中させた。かつてレンに見せたあの巨大な渦のような流れが、彼女のなかで目覚める。聖油の冷たい膜が、その流れをせき止めようとするのを、彼女ははっきりと感じ取った。
「……私は、その鎖を断ち切る」
セラフィーナは静かに歌い出した。
「星霜の子らよ、光の繭に眠れ──」
それは朝の離宮でひとり口ずさんだのとは、まったく異なる歌声だった。深く、豊かで、まるで身体の奥底から湧き上がる泉のような声。彼女の周囲の魔素が、歌に共振し、巨大な渦を描きはじめた。
額の聖油が、かっと熱を帯びた。彼女の皮膚の上で、聖油が蒸発し、かすかな白い煙となって立ち昇る。痛みは一瞬。すぐに熱は引き、代わりに彼女の目の前が、ぱっと開けた。
(……見える)
彼女は初めて、魔素の流れを見ていた。
洞窟の奥から、蒼白い光の帯がゆっくりと流れ出し、彼女のもとへと届こうとしている。それは手のようにも見えた。翼のようにも、根のようにも見える。そしてそれは、彼女の歌を待っていた。
「聴こえているのね。あなたの声が、私に」
「行きましょう」
レンが手を差し伸べる。今度はセラフィーナの方から、迷いなくその手を握った。
ふたりは、第七段目の石段を踏みしめ、洞窟のなかへと足を踏み入れた。
洞窟の内部は、闇ではなかった。
岩壁のあちこちにびっしりと生えた淡光苔が青白い燐光を発し、かすかながら足元を照らしている。それだけではない。空気そのものが、無数の微小な光の粒子で満たされていた。魔素の胞子だ。洞窟全体が、ひとつの巨大な生命体の内部であるかのように、息づいている。
通路は長く、ゆるやかに下っていた。途中、何度か分岐があったが、レンは魔素の流れの濃さを頼りに、正しい道を選んで進む。セラフィーナもまた、聖油の呪縛から解き放たれた自分の感覚を研ぎ澄まし、ウツロイの声を追いかけていた。
(こっち……)
(もっと奥……)
ふたりは言葉を交わさずとも、同じ方向を目指していた。
やがて通路が終わり、巨大な空洞がひらけた。
天井は高く、果てが見えない。洞窟というよりは、山の内部に存在するもうひとつの世界のようだ。岩壁には無数の蒼白い結晶が埋め込まれ、それが全体をぼんやりと照らしている。
そして、空洞の中央に──。
それは、あった。




