第五章 星霜の繭 3
竜の骨格である。
全長は優に三十メートルを超えようかという巨大な骨が、空洞の中央に横たわっていた。その威容は、死してなおこの空洞を満たす圧倒的な存在感を湛えている。肋骨の一本一本が大聖堂の柱のように太く、脊椎は地を這う丘陵のようだ。頭骨は壁に向かって安置され、その空虚な眼窩が、どこか遠くを見つめている。
しかし、もっとも目を奪われたのは、その骨格を覆い尽くすものであった。
花である。
無数の、白い花々。
肋骨のあいだを縫うように蔓が伸び、脊椎に沿って蔦が絡まり、四肢の骨には薄青く透き通る花弁の群れが鈴なりに咲いている。
空洞の空気は、甘く澄んだ芳香で満たされ、花々は呼吸するように、ゆっくりと開閉を繰り返していた。
「──これが」
セラフィーナの唇から、声が漏れた。
「これが、竜の亡骸に根を張った、異界の花の精霊」
「ウツロイ」
レンがその名を呼ぶと、花々がいっせいに震えた。
そして、竜の心臓があったと思しき場所──骨格の胸郭の中心、もっとも分厚く花々が重なり合った場所から、ひときわ強い光が立ち昇った。
光はゆっくりと形を成し、花弁を重ねたようなドレス、地面にまで届く長い蔓髪を持つ、かそけき人の姿となる。性別などない存在の仮の姿だ。ただ、その輪郭は絶えず揺らぎ、花びらが散ってはまた咲き、咲いてはまた散っていく。
精霊は、ふたりを見つめた。
その瞳は、数え切れない花の記憶を湛えた万華鏡のようだった。
『──よく、来てくれた』
声は、耳に聴こえるものではなかった。風に乗る花粉のように、ふっと頭のなかに像を結ぶ、かすかなテレパシーだ。
『何代ぶりかしら。君たちは、ふたりで来たんだね』
「あなたが、ウツロイ」
セラフィーナが一歩前に出た。
『そう。ウツロイ。それが、あの竜が遺してくれた名前』
精霊は微笑んだ。その顔は、人間の感情表現を模倣してはいるが、何か根本的に違う種類の魂が宿っていることがありありと感じられる。
『私は、もともとはこの世界の者じゃない。遠い異界で絶滅した、知性体植物の最後の種子だった。そして竜が死にゆくとき、その心臓の上で芽吹き、竜の記憶と使命を引き継いだのだ』
「竜の使命……それは」
『世界の魔素の循環を守ること。大傾斜大陸という巨大な生態系の、いわば心臓として在り続けること。竜はそれを、何万年も続けてきた。けれど千年前、竜は寿命を迎え、そして死んだ』
精霊は、自身を取り巻く花々をそっと撫でた。
『私は竜の遺志を継いで、梯子を守ってきた。七たび星霜が巡る、千年ものあいだ、この洞窟で魔素の循環を支えてきた。けれど、それももう、終わり』
「終わり?」
『私には、子孫を残す力がない。異界の花である私が、この世界で種を結ぶためには、この世界の生命体と交感しなければならない。けれど、私と真に対話できる者は、これまでひとりも現れなかった。歴代の巫女たちはみな、私の声をかすかには聴き取っても、完全には対話ができなかった』
「聖油のせいです」
レンが言った。
「教会が、巫女たちの感応力を封じていたんです。儀式を血の生贄として維持するために」
『……そうか。なるほど。先代のルチアも、苦しんでいた。私の声が、聞こえそうで聞こえないと。それでも彼女は、生涯をかけて私と歌い続けてくれた。彼女の歌声がなければ、私はとうに枯れていただろう』
「先代様の日記を、読みました。あなたに託されたものを」
セラフィーナは胸元から手帳を取り出した。
「私に、あなたの言葉が聴こえるかどうか。これからそれを、確かめさせてください」
彼女は深く息を吸い込み、両手を胸の前で組んだ。目を閉じ、魔素の流れを全身で感じながら、彼女は歌い始めた。
「星霜の子らよ、光の繭に眠れ」
「風の産毛に包まれ、土の褥に還るまで」
「尾を食むもの、輪を廻るもの」
「ウツロイよ、ウツロイよ」
彼女の声は、空洞の空気を震わせた。岩壁に咲く無数の花々が、いっせいに開き、歌に応えるかのように光を放つ。花弁の一枚一枚が楽器の弦の役割を果たし、彼女の声に共振して、空洞全体がひとつの巨大な楽器のように鳴り響いた。
「汝がひとり啼く夜は、誰が聴く」
「汝がひとり散る朝は、誰が看る」
精霊の姿が、ぴたりと揺らぐのを止めた。
その万華鏡のような瞳から、光の雫がこぼれ落ちる。
『──聴こえる』
精霊の声が、今度ははっきりと、ふたりの頭のなかに届いた。
『私の言葉が、君に聴こえる。違うか』
「はい。聴こえています。あなたの声が、確かに」
セラフィーナは歌を止め、微笑んだ。その目からもまた、涙がこぼれ落ちていた。
「私は、あなたと対話ができる。ようやく、千年ぶりに、誰かが」
『ああ、そうだ。なんと長いあいだ、この日を待ったことか』
精霊は、ゆっくりとセラフィーナに近づいた。蔓の髪がそよぎ、花弁のドレスがはらはらと散る。
『君の名前を、教えてほしい』
「セラフィーナ」
『セラフィーナ……美しい響きだ。君の声は、まるで春の陽光に撫でられた花弁のように繊細で、それでいて冬の霜にも負けぬ芯がある』
「ありがとう。私も、あなたに会いたかった」
セラフィーナは精霊に手を差し伸べた。精霊の手は、触れれば崩れてしまいそうなほど、かそけき花びらでできている。だが、その指先は確かに彼女の手に触れ、そして温かかった。
「ウツロイ、私はあなたに訊ねたいことがある」
『なんだろう』
「あなたは、何を望んでいるの」
精霊はしばらく沈黙した。
空洞の花々が、ざわざわと揺れる。まるで、精霊の心のなかの葛藤を代弁するかのようだ。
『私は……ずっと、還りたいと思っていた』
「還る? どこへ」
『故郷の異界へ。死んだ竜がそうだったように、私も魂を宇宙へと昇華させ、星のあいだを渡る風に還りたい。種族の記憶を抱えたまま、永遠の旅に出たい。それが、竜と私が何千年ものあいだ夢見てきた終わり方だった』
「でも」
『でも、違う。今、君と話してわかった。私が本当に望んでいたのは、昇華ではなかった』
精霊は顔を上げた。その顔には、千年ぶりの涙が流れている。
『私はただ、誰かに私の名前を呼んでほしかった。私の存在を、知ってほしかった。私がこの世界に生きたことを、誰かに覚えていてほしかった』
「ウツロイ……」
『君は私の名前を呼んだ。私の声を聴いた。それだけで、私の千年は報われた』
空洞の空気が、ふっと和らいだ。
それまでどこか張りつめていた精霊の魔素が、ほどけて溶けていくように広がり、花々も静かにうつむいた。
「それなら、なおさら」
レンが静かに口を開いた。
「昇華なんてしなくていい。この世界で、もう一度生きればいい」
『……どういうことだい、目のいい少年』
「僕の眼は、あなたの花の構造を見ています」
レンは精霊に歩み寄りながら、慎重に言葉を紡いだ。
「あなたの花は、異界の生命体であるがゆえに、この世界の土壌では種子を結べない。けれど、理由はそれだけじゃない。あなたは竜の亡骸から魔力を吸い上げているが、竜の魔力はすでに千年のあいだに変質している。もともと竜の魔力とあなたの魔力は異質で、だから自家受粉ができないんだ」
『……よく、そんなことが』
「見えているんです。魔素の色が。あなたの若草色の魔素と、竜の遺した金色の魔素は、完全には混ざり合っていない。まるで油と水のように、互いを反発させている。でも──」
レンはセラフィーナを振り返った。
「彼女の魔素は違う。セラフィーナ様、あなたの魔素は、どちらとも馴染む色をしている」
「私の……」
「そうです。あなたの青い魔素は、ウツロイの若草色にも、竜の金色にも、自然に溶け合う。あなたが仲立ちすれば、ウツロイはこの世界で種を結べる。昇華なんてしなくても、新しい命を残せるんです」
『種を……この世界で』
精霊の身体が、ふるりと震えた。
『しかし、千年も孤独のなかで、私はもうほとんど魔力を使い果たしている。種を結ぶだけの力が、私にあるだろうか』
「ある」
それはセラフィーナの声だった。
「だって、あなたはもう孤独じゃない。私は、歌う」
彼女はウツロイの両手を取った。
「あなたが種を結ぶそのときまで、ずっと歌い続ける。あなたの力が足りないなら、私の魔素をあげる。持っているもの全部を、あなたに」
「それなら僕も」
レンが言った。
「僕の目は、魔素の流れを見ることができる。あなたが種を結ぶために、どの方向へ、どのくらいの魔力を注げばいいか、それを正確に指し示せる」
『……ふたりとも、本気で言っているのか』
「もちろん」
「当然です」
精霊は顔をくしゃくしゃにして笑った。その笑顔は、千年という歳月を一瞬で取り戻したかのように、あどけなかった。
『ああ、なんて私は幸せ者なんだろう。千年待って、ようやく会えたのが君たちで、本当によかった』
「方法は、わかるんですか」
『ああ。竜の記憶のなかに、ちゃんと残っているよ。巫女の歌と、竜の魔力と、花の精霊の種子がひとつになるとき、新しい命が芽吹く。それは《星霜の繭》と呼ばれるものだと』
レンは思わず息を呑んだ。
「その歌は、それを歌うための歌だったのか」
『そう。この歌は、そもそも命の再生のための儀式歌だったのだ。生贄でも、昇華でもない。新しい命をこの世に呼び寄せるための、祝福の歌だ』
ウツロイは空洞の中央に立ち、両腕を上げた。
「始めよう。千年の孤独を終わらせる、最後の儀式を」




