第五章 星霜の繭 4
まず、ウツロイが歌い始めた。
それは人の声ではなかった。花弁が擦れ合う音、蔓が風にそよぐ音、花粉が空気中を舞う音、それらすべてが折り重なって、かそけき旋律を奏でる。精霊の歌声は、聴く者の胸の奥に直接届く、言葉以前の、原初の歌だった。
(これは……竜の記憶)
レンの目には、歌が魔素の波となって空洞中に広がっていくのが見えた。ウツロイのなかに千年間蓄えられていた竜の記憶が、歌というかたちをとって解き放たれていく。
空洞の空気が、金色に輝きはじめた。岩壁に埋め込まれた結晶が共振し、天井からは光の粉が降り注ぐ。その一粒一粒が、竜が生きた何万年という時間の断片だった。
そこに、セラフィーナの声が重なる。
「七たびの星霜を経て、種は芽吹く」
「歌え、歌え、繭を破る朝まで」
「ウツロイよ、ウツロイよ」
「風の産毛よ、光の繭よ」
彼女の声は、ウツロイの歌と呼応し、ふたつの旋律が絡み合いながら巨大な魔素の渦を形作りはじめた。それは、あの祠の前でレンが目撃したのと同じ、しかし比べ物にならないほど巨大な涌昇流のようだった。
ウツロイの身体が、光に包まれていく。蔓の髪がほどけ、花弁のドレスがめくれ、一枚一枚が風に舞い、本体である「種子」が露出し始める。それは、心臓の形をした宝石のような輝きだった。
「レン、今です!」
セラフィーナが叫ぶ。
「種子に魔素を集中させてください。でも、竜の魔力とあなたの魔力が反発しないように、ほんのわずか、角度をつけて!」
「まかせて!」
レンは集中した。彼の目の前で、ふたつの異なる魔素──竜の金色とウツロイの若草色──が、もつれ合いながらも完全には混ざり合わないでいるのが、はっきりと見える。だが、そこにセラフィーナの青い魔素が流れ込むと、ふたつはまるで長年離ればなれだった恋人たちのように、するりと溶け合った。
(今だ!)
レンは、ウツロイの種子に向かって、その融合した魔素の流れを誘導した。
空洞全体が、光に包まれた。
あまりの眩しさに、思わず目を閉じる。
耳の奥で、セラフィーナの歌声がいつまでも響き続けていた。
そして──。
どれくらい時間が経ったろうか。
レンが目を開けると、光はすでに収まっていた。
空洞の中央で、何かが変わっている。
竜の骨格はそのままだった。だが、その胸郭の中心、ウツロイが立っていた場所には、もう精霊の姿はなかった。
代わりに、一輪の花が咲いていた。
星霜花──伝説のなかだけに存在すると思われていた花だ。半透明の白い花弁が幾重にも重なり、中心からは金色の蕊が伸びている。その根元には、小さな、本当に小さな種子の莢がいくつもついていた。
「ウツロイ……?」
セラフィーナが呟く。
すると、花がふっと震え、その花弁のあいだから、かすかな声が聴こえた。それはもう、言葉にはならなかった。ただそこにあることの喜び、命が受け継がれたことの安堵、そしてふたりへの感謝が、香りとなって伝わってくるだけだった。
「終わったんだ」
レンは言った。
「昇華じゃない。種子を残すことで、ウツロイは終わった。でも──」
「同時に、始まった」
セラフィーナが跪き、星霜花の根本に手を伸ばした。すると、成熟した種子の莢がひとつ、ぽとりと彼女の掌のなかに落ちる。
「この種子を蒔けば、またウツロイに会える」
「……世界中に、あの花を咲かせましょう」
レンは彼女の隣にしゃがみ込み、種子の莢をひとつひとつ、丁寧に採取し始めた。持参した小瓶のなかに、安全に保管する。全部で十ほどの莢が採れた。
そのあいだ、星霜花はただ静かに、その場に咲き続けていた。花弁はゆっくりと動き、まるでふたりを見守っているかのようだった。
「そういえば」
セラフィーナが言った。
「先代のルチア様は、どちらに」
ふたりは空洞のなかを探した。やがて、竜の頭骨の近くに、それを見つけた。
花に埋もれるようにして、古い白骨が横たわっていた。傍らには、朽ちかけた祈祷書の写しと、一輪の押し花が置かれている。
セラフィーナは白骨の前で跪き、長いあいだ祈りを捧げた。
(ルチア様、あなたの願いは叶いました。あなたが守り続けた花は、新しい命を残しました。だから、もう安心して眠ってください)
押し花を手に取ると、それは百年以上前の星霜花だった。色は褪せ、触れれば壊れそうなほど脆くなっている。けれど、その花弁のなかには、まだかすかにルチアの魔素が宿っていた。
「……この花も、一緒に連れて帰りましょう」
セラフィーナは押し花を胸元にそっとしまった。




