第五章 星霜の繭 5
洞窟の外に出ると、外は夕暮れだった。
朝、ふたりがここに着いてから、一日のすべてが過ぎ去っていたのだ。神梯嶺の稜線が茜色に染まり、その向こうに広がる大傾斜大陸の全貌が、夕焼けのなかに浮かび上がっている。あの王都グランツシュタインも、領都アルベリヒも、屍衣谷も、すべてがこの一望のなかにあった。
「戻りましょうか」
レンが言うと、セラフィーナはかすかにうなずいた。
「でも、そのまえに」
彼女は洞窟の入口に向き直り、大きく息を吸った。
「さようなら、ウツロイ。でも、これは永遠の別れじゃない」
風が吹き、洞窟の奥から花の香りが漂ってくる。
まるで、返事のように。
ふたりは手をつなぎ、巡礼古道を下り始めた。行きにはあれほど危険だった道のりが、帰りはなぜだか、とても優しく感じられた。
食樹の灌木帯を抜けると、無数の月光花が夕闇のなかで開花を始めていた。白い花弁は、ふたりの行く手を照らす灯りのように、道の両側にどこまでも続いている。
「そういえば、この花に託した手紙を、あなたはどうやって」
「忘れ鴉が届けてくれたんです」
「忘れ鴉……そんなことが」
「僕にも不思議でした。でも、きっとあの花たちは、ただの花じゃなかった。ウツロイの意識が、どこかで繋がっていたのかもしれません」
「そう。なら、この世界のどこかで、ウツロイはもう目覚めているのかも」
ふたりはふっと笑い合い、手を離さぬまま、麓へと下りていった。
神梯嶺のふもと、霧隠れの森の入り口まで戻ってきたとき、前方に松明の列が見えた。
聖堂騎士団である。
先頭にいるのは、ヴォルフガング副隊長だった。彼の顔は蒼白で、怒りと焦りがないまぜになっている。
「巫女様! ご無事で!」
彼は馬から飛び降り、駆け寄ってきた。
「何たるご無謀を! 儀式をすっぽかし、たったひとりで山に入るなど……!」
「ひとりではありません」
セラフィーナは落ち着き払って言った。
「それに、儀式はもう終わりました」
「なに……?」
「洞窟のなかにいたのは、竜ではありませんでした。ウツロイという花の精霊です。そして儀式は、適切な形で、私とレンフリート様によって執り行われました」
「何を勝手なことを……!」
「ヴォルフガング副隊長」
セラフィーナの声が、凛と響いた。
「私は巫女です。竜の巫女として、神と対話し、その真実を伝える義務があります。その義務に従って、私はウツロイと歌い、話し、そして見届けました。千年の孤独を終わらせ、新しい命が芽吹く瞬間を」
彼女は、聖堂騎士たちの顔をひとりひとり見渡しながら言った。
「あなた方は、歴代の巫女たちを騙し続けてきた。聖油と称して魔素感応を封じ、真実を知らせないまま、洞窟に送り込んでいた。もはやそれは神への奉仕ではなく、権威を守るための欺瞞です」
「……証拠はあるのか」
「あります」
レンが前に出て、鞄から取り出したもの──それは、洞窟から採ってきた星霜花の種子の莢だった。小瓶のなかで、それがかすかに青白く輝いている。
「これが、ウツロイの遺した種子です。そして、先代巫女ルチア様の日記も。それから、地下聖堂に保管されている原本の石版。これらすべてが、現在の教義が偽りであることを示しています」
「小僧……お前は、地下聖堂にも」
「ええ。すべてはそこから始まった」
ヴォルフガングはしばらく無言でふたりを睨みつけ、やがて深いため息をついた。その顔からは、怒りが急速に抜け落ち、代わりに疲労の色が浮かんでいる。
「……わかった。ひとまず大神殿に戻っていただく。そこで、正式にグレゴリウス猊下も交えて、この事態を協議する。それでよろしいか」
「もちろんです」
セラフィーナはうなずき、レンのほうを振り返って、かすかにほほえんだ。
エピローグ
時は流れた。
レンがヴァレンタイン子爵領の小さな研究室で、魔導植物学の論文を書き上げたのは、あれから十年後の秋のことだった。
研究室の窓辺には、いくつもの鉢植えが並んでいる。そのどれもが星霜花だった。半透明の白い花弁が幾重にも重なり、中心から金色の蕊が伸びる、あの美しい花である。彼が洞窟から持ち帰った種子は、その後の研究で栽培法が確立され、今では大陸じゅうに広まりつつあった。
論文の題は、『絶滅種“星霜花”の異土馴化に関する観察記録──精霊ウツロイの遺伝的形質と魔素循環への寄与について』。
「……できた」
レンはペンを置き、椅子の背にもたれて天井を見上げた。
この十年間、彼は魔導植物学者として数多くの業績を挙げてきた。屍衣苔の繁殖制御法、食樹の麻痺性花粉の医療応用、淡光苔の照明利用。どれもこれも、あの洞窟の冒険がきっかけとなって生まれた研究だった。
ノックの音がして、扉が開く。
「入ってもいい?」
セラフィーナだった。十年前と変わらぬ銀の髪と青い瞳。しかし今はもう、巫女の衣ではなく、ごくふつうのワンピースを着ている。
彼女は手に赤ん坊を抱いていた。生後三か月になる、ふたりの娘である。
「ちょうど今、論文が書き終わったところです」
「そう。それはよかった。この子も、お父さんの論文が完成するのを待ちきれなかったみたい」
セラフィーナが赤ん坊をレンの腕に渡す。小さな手が、無意識に父親の指を握った。
「そういえば、もうすぐお花の季節ね」
「ええ。今年はとくに、星霜花の成長がいいそうです。グレゴリウス猊下が、大神殿の中庭を一面の星霜花畑にしたとか」
「あの方が大司教を退いて、隠遁生活を送りながら花を育てているなんて、十年前には想像もできなかったわ」
「ええ。でも、たぶんあの方にとっては、これが一番の幸せなんだと思います」
赤ん坊が、ふと窓辺の星霜花に手を伸ばした。
すると、花がかすかに輝き、金色の花粉がほんのわずか、空気のなかに舞い上がった。それはまるで、誰かが赤ん坊に応えているかのようだ。
レンの目には、その瞬間、赤ん坊の手と花が触れ合う空間に、かすかな若草色の魔素の光の粒が弾けるのが見えた。
「……ただいま、ウツロイ」
彼は微笑み、そっと花びらを指で撫でた。
千年の孤独の果てに、ようやく得た家族。
それは、死に絶えたはずの異界の花が、新しい世界で静かに、しかし確かに根づいた瞬間だった。
あの洞窟で生まれ、今ここで芽吹き、そして未来へと続いていく命。
星霜の繭は、こうして静かに、あたたかく孵ったのである。




