第三章 地下聖堂の黙示 2
「そこまでです」
冷たい声が、聖堂に響いた。
レンが振り返ると、松明を手にした三人の聖堂騎士が、通路の入口を塞いでいた。全員が銀色の鎧に身を包み、腰には魔導剣を佩いている。その胸には、第七神ウロボロを象徴する尾を食む蛇の紋章が刻まれていた。
「地下聖堂への無断侵入は重罪です。名乗りなさい」
先頭の騎士が一歩前に出る。
レンは素早く頭を巡らせた。追記の内容は記憶した。石板に指一本触れていない、証拠は残していない。だが、ここで捕まればすべてが終わる。
「聞こえなかったか。名乗れ」
「……レンフリート・ヴァレンタイン。アルベリヒのヴァレンタイン子爵が三男です」
「子爵家の子息が、なぜこのような場所に」
「歴史の、研究です。写本と原本の異同をどうしても確かめたくて」
それが精一杯の答えだった。嘘は言っていない。
騎士たちは顔を見合わせた。この状況で、聖職者でもない地方貴族の子供が言い訳をするとは思っていなかったのだろう。
「いずれにせよ、規則は規則だ。いったん拘束する。事情は上で聴こう」
騎士のひとりが、枷を取り出す。
そのときだった。
「お待ちなさい」
通路の闇の向こうから、別の声がした。
年老いた、しかしよく通る声だった。松明の灯りに照らし出されたのは、深紅の僧衣を纏った老聖職者である。胸元には大司教の位を示す黄金の梯子章が輝いていた。
騎士たちが慌てて片膝をつく。
「グレゴリウス猊下……!」
「その若者は、儂の客人だ。地下聖堂の調査は、儂が許可した」
「しかし猊下、規則では事前の申請が……」
「規則ならば儂がもっともよく知っておる。なにか不服か」
「滅相もございません……!」
老聖職者──グレゴリウス大司教は、レンに目をやった。深い皺の刻まれた顔のなかで、灰色の瞳が、値踏みするように光っている。
「ヴァレンタイン家の若者よ。そこまでだ。来なさい」
状況が呑み込めないまま、レンは老聖職者の後について地下聖堂を後にした。
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大司教の私室は、大神殿の最上階、第七の尖塔《生命の梯子》の頂にあった。
部屋は驚くほど質素で、わずかな調度品と壁一面の書架があるだけだ。窓の外には、王都の夜景が広がっている。無数の蝋燭と魔導灯の灯りが、まるで地上に落ちた星空のように瞬いていた。
「かけなさい」
グレゴリウスは簡素な椅子を示し、自らも向かいの席に腰を下ろした。
「まず礼を言おう。屍衣谷の巨人を倒したのは、お主だと聞いておる」
「……いえ、傭兵の方々の協力があってのことです」
「謙遜するな。巨人を観察し、千年間誰も気づかなかった弱点を見抜き、みずから囮となって槍の封印を解いた。十五歳の若者ができることではない」
レンは黙った。この老人は、いったい何者なのか。
「お主のことは、エーベルハルトから聞いておった。そしてつい先ほども、別の筋から報告があった。地下聖堂の罠をすべてすり抜けた少年がいると。それも、正面から力づくではなく、魔素の流れを読んで最小限の干渉ですり抜けた。こんな真似ができる者は、儂の知るかぎり、この百年でひとりもおらん」
「……すべて、お見通しだったんですね。ではなぜ、これを」
「これ、とは」
「私が地下聖堂に入ることを、黙認なさった。そればかりか、騎士たちから庇っていただいた」
グレゴリウスはしばらく無言でレンを見つめ、やがてゆっくりと立ち上がった。壁際の書架から一冊の薄い冊子を取り出し、レンの前に置く。
それは、手書きの覚書だった。題名にはこうある。
『昇華の儀に関する歴史的疑義についての私的覚書』
「……これは」
「儂が若き日に、地下聖堂の原本と現行の教義の矛盾に気づき、こっそりとまとめたものだ。もちろん、誰にも見せたことはない。儂は大司教という立場上、この矛盾を公にすることはできん。できんが……しかし、このままではいけないとも思うておる」
レンはページをめくった。そこには、彼が地下聖堂で見つけたのとまったく同じ矛盾が、詳細に分析されていた。千年が百年に、血が蜜に、生贄が歌詠みに書き換えられた経緯についての推測も記されている。
「千二百年ほど前、大傾斜統一戦争の時代です。戦争を有利に運ぶため、当時の聖職者たちが教義を書き換え、竜神をより恐ろしい存在に仕立て上げた。民衆の結束と恐怖による統治が目的だったのでしょう。そして百年に一度の生贄制度は、じつは戦争で失われた『花の蜜を捧げる平和な儀式』だったのです」
「……花の蜜」
「ええ。もともとは、巫女が竜に歌を捧げ、竜がそれに応えて花の蜜を分け与える。その蜜には、大地を豊かにする力があったと。しかし戦時下の権力者は、それを血の儀式に変えた。生贄の恐怖で人々を縛り、神への畏怖で権威を強化したのです」
「でも、それなら竜はなぜ、その嘘を受け入れてきたんですか」
グレゴリウスは、苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「この覚書を書いたときは、私にもわかりませんでした。しかし、十年前から、私はもうひとつの仮説を持つようになりました」
「仮説、とは」
「──洞窟にいるのは、竜ではないのかもしれない」
その言葉は、レンの胸にまっすぐに突き刺さった。
「竜はすでに絶滅している。神梯嶺の祠の奥にいるのは、おそらく……竜の亡骸に宿った別の存在です。それがなにかはわからん。だが、もし竜ではないとすれば、生贄の儀式にはまったく意味がない。いや、それどころか、無意味な死を積み重ねているだけだ」
「それについて……実は」
レンは石板の最下部に刻まれていた追記の内容を、記憶のままに伝えた。
星霜七たび。一輪の花。ウツロイという名。円環を守る者。孤独に枯れゆくならば梯子は断たれること。
グレゴリウスは、長い沈黙のあと、震える声で言った。
「……ウツロイ、花の精霊……。なるほど、それですべてが繋がる。そして竜は花に自らの記憶と使命を託したのか。しかし、それならばなおのこと、この儀式を続けるわけにはいかん」
「猊下。お願いがあります」
レンは立ち上がった。
「私を、生贄の巫女に会わせてください。セラフィーナ・ローゼンクロイツ様に」
「なんのために」
「話をしたいんです。洞窟にいるのが竜ではなく孤独な精霊であることを。そして、もし彼女が望むなら、儀式の前に、その真実を確かめる方法があるということを」
グレゴリウスは深く眉を寄せた。指を組み、しばらく考え込んでから、うなずいた。
「……明日、任命式が行われる。それが終わればセラフィーナ嬢は正式な巫女として、大神殿の中庭にある禊の離宮に移る。ならば明後日の夜、離宮の裏にある忘れられた祠の前で待ちなさい。誰にも見つからぬよう、手はずは整えよう」
「なぜ、そこまでしてくださるんです」
「老い先短い聖職者の、せめてもの罪滅ぼしだ」
窓の外を見ながら、大司教は言った。
「私もまた、長年、この嘘に加担してきた。知っていながら、何もできなかった。次の世代に、すべてを押しつけるつもりはない。それに──」
彼は振り返り、レンの目をまっすぐに見つめた。
「お主のその目は、嘘を見抜く目だ。だがそれ以上に、何かを救おうとする熱を感じる。もしその熱が本物なら、あるいはあの少女を、いいや、もっと大きな何かを救えるかもしれない」
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3
任命式の朝は、雲ひとつない快晴だった。
大神殿の中央礼拝堂には、大陸中の貴族たちが集まっていた。七つの尖塔から差し込む陽光が、ステンドグラスを通して七色の光の束に変わり、大理石の床に神々の姿を描き出している。
最前列には皇帝代理。続いて七つの大公家、諸侯、地方貴族の代表たち。座席の序列は、そのままこの大陸の権力構造を表していた。
聖歌隊が古ザクセン語の讃美歌を歌い上げるなか、セラフィーナはゆっくりと中央通路を進んだ。
純白の儀礼服に身を包み、銀の髪には月光花で編んだ冠が載せられている。顔は薄いヴェールに隠され、その表情を窺うことはできない。だが、歩みに迷いはなかった。一歩一歩が、研ぎ澄まされた覚悟のようでもあり、あるいは何かを諦めきった諦念のようでもあった。
(お父様は、いらっしゃらない)
セラフィーナは祭壇に向かいながら、貴族席の最前列に父の姿がないことを確認した。あらかじめ聞かされてはいた。ローゼンクロイツ公爵は病身のため、どうしても式に参列できないと。しかし、それが建前であることを、彼女は知っていた。
父は、この儀式に耐えられないのだ。娘を生贄として差し出すことに、誇りと苦悩の間で引き裂かれて。だからこそ、せめて顔を見せずに送り出すことを選んだのだろう。
(それでよいのです。お父様)
彼女は心のなかで呟いた。祭壇の前に着き、跪く。
大司教グレゴリウスが、厳かな面持ちで彼女の頭に手をかざした。
「セラフィーナ・ローゼンクロイツ。汝はこれより、第七の梯子ウロボロの花嫁として、その身と魂を神に捧げる者である」
「謹んで、お受けいたします」
「その覚悟、神は確かにお聞き届けになられた。されば、神の祝福の証として、汝に聖油を注がん」
グレゴリウスが黄金の小瓶を取り出す。中には、代々の巫女に受け継がれてきたという聖油が入っている。彼はその油を一滴、セラフィーナの額に垂らした。
その瞬間。
セラフィーナは、かすかに眉をひそめた。
聖油が、あまりにも冷たかったからではない。
彼女の身体の奥深く、魔素の核とも呼べる場所で、何かがかすかに震えたのだ。それは警告だった。身を護れと叫ぶ、本能の声だった。
(……この油は……)
しかし彼女は何も言わず、ただ深く頭を垂れた。
儀式はつつがなく進行し、任命式は終わった。彼女は正式に《竜の巫女》となり、あとは七日後に迫った出立の日を待つばかりとなった。
式が終わり、人々が礼拝堂を後にするなかで、セラフィーナは祭壇の脇に飾られた巨大なタペストリーを見上げた。
そこには、第七神ウロボロの姿が織り込まれている。自らの尾を食む円環の竜。そしてその足元に跪き、血の杯を差し出す巫女の姿。
子供の頃から、何度も見上げてきた光景だった。だが、今日はなぜか、そのタペストリーの隅に織り込まれた小さな意匠が目に留まった。
竜の尾の近く、背景の岩陰に、それはあった。
一輪の、白い花。
聖典のどこにも、この花の意味は書かれていない。神学の講義でも、語られたことは一度もない。だが、それは確かにここに在り、百年ごとに新しく織り直されるこのタペストリーのなかで、ただここだけは誰の手も入らず、一千年のあいだ同じ意匠が守られ続けているという。
「……あなたは、誰なの」
彼女がそっと呟くと、指先がかすかにしびれた。
昨夜、修道院の窓辺に置かれていた屍衣苔の菌糸。あの白い糸が、今も彼女の指先に絡みついているかのような、不思議な感触だった。
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その夜、グレゴリウスがレンに約束した「忘れられた祠」は、大神殿の裏手にある古い庭園の片隅にひっそりと佇んでいた。
庭園そのものが、ほとんど手入れされておらず、石畳のあちこちから雑草が伸びている。かつては美しい幾何学庭園だったのだろうが、今はもう訪れる者も稀な場所だった。
祠は、領都アルベリヒで見たものと、まったく同じ造りだった。
円形の石組み。中央に安置された、尾を食む蛇の石像。そして、かすかに香の残り香。
レンは祠の前の石段に腰を下ろし、彼女が来るのを待った。
夜風が生け垣の葉を揺らし、遠くで梟が鳴く。手のひらの傷はまだ癒えず、包帯の下でじんわりと痛んだ。
(彼女は、来るだろうか)
あの大司教なら、きっと約束を違えはしない。だが、会ったとして、自分は彼女に何を伝えればいいのか。儀式をやめろと言うのか。真実を伝えて、どうしろと言うのか。
答えの出ないまま、月が中天に昇った頃。
足音が、聞こえた。
顔を上げると、そこには白い衣の上に濃紺の外套を羽織ったセラフィーナが、月明かりのなかに立っていた。式のときの豪奢な装いではなく、修道女の詰め所から抜け出してきたような、ごく簡素な姿だった。
「……あなたは、あのときの」
「レンフリート・ヴァレンタインといいます。先日は領都の祠で、突然お声がけしてしまい申し訳ありませんでした」
セラフィーナはかすかに首を振った。
「大司教様からお話は伺いました。私に、どうしても伝えたいことがあると」
「はい」
「でもその前にひとつ、教えてください。あの夜、あなたは私の何を見たのですか」
レンは少し迷ってから、正直に答えた。
「魔素の流れです。あなたの周りの魔素が、まるで渦のように、周囲のあらゆるものを静かに吸い寄せて天へと昇らせていた。あんな動きは、一度も見たことがありませんでした」
「それは……私が巫女だから?」
「わかりません。ただ、あの動きは、海底から栄養塩を表層へと運び上げる湧昇流という自然現象にそっくりでした。つまり……あなたは、この世界の何かを根本から変える力を持っているのかもしれない」
セラフィーナの青い瞳が、初めてかすかに揺らいだ。
「……私にはもう、そんな力は必要ありません。私は竜のもとへ行き、この世界を去るのですから」
「でも、それは違うんです」
レンは立ち上がった。
「洞窟にいるのは、竜じゃない。ウツロイという、一輪の花の名を持った存在です。千年前に竜は滅び、その亡骸に花の精霊が宿って、以来ずっと、ただひとりで──」
「やめて」
突然、セラフィーナの声が鋭くなった。
「そんな話を聞くために来たのではありません。私は、私の使命を全うします」
「それがもし、まったく意味のない使命だとしたら? 誰も救わない、ただの死だとしたら」
「それでも」
彼女は顔を上げた。月光を受けて、青い瞳が濡れたように光る。
「それでも……私には、それしかないのです。あなたに何がわかるというの。たった十五年の生しかないあなたが、十七年のすべてを生贄として育てられた人間のことを、どうして理解できるというの」
その声は、震えていた。それは怒りではなく、縋るような響きだった。彼女はすでに、何かを失うことに慣れすぎていて、今さら何かを得ることが怖いのだ。希望を持つことが、何よりも怖いのだ。
レンは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「理解なんて、できません。あなたの苦しみを、僕のような部外者が簡単にわかるはずがない。でも……洞窟にいる存在も、あなたと同じなんです。使命だけを背負わされて、たったひとりで、千年ものあいだ待ち続けた。誰にも本当のことを伝えられず、名前すら忘れられて。それでも誰かを待っているんです。おそらくは……あなたのような誰かを」
祠のなかで、ろうそくの火がふっと揺れた。
長い沈黙のあと、セラフィーナはぽつりと言った。
「そのウツロイという存在は、何のために待っているのですか」
「まだ、わかりません。でも、調べたいんです。あなたが洞窟に入るその日までに、必ず。だから少しだけ、時間をください」
「……なぜ、あなたがそこまで」
「見てしまったからです」
レンは自分の目を指さした。
「この目が、見てしまったんです。あなたの魔素も、ウツロイの追記の魔素も、同じ色だった。人間じゃない、何かもっと優しい生き物の色をしていた。それが何なのか、僕は知りたい。そして、もしあなたが望むなら、その存在に会わせてあげたいんです。生贄としてではなく、ひとりの人間として」
月が雲に隠れ、あたりがふっと暗くなる。
闇のなかで、セラフィーナはしばらく無言だった。やがて、小さな声が聞こえた。ほとんど囁きのような、しかし確かな決意を秘めた声だった。
「……七日後、夜明けに私は発ちます。それまで、です」
「ええ、それまでに必ず」
「でも、どうやって洞窟の真実を?」
レンは口元に微かな笑みを浮かべた。
「明日からまた、図書館に籠もります。大司教様の覚書をもとに、竜とウツロイに関するあらゆる文献を洗い直すんです。願わくば、古代の歌詠みの巫女が竜とどうやって会話したのか、その方法を探り出したい」
「歌、ですか」
「そうです。元の儀式では、巫女は生贄じゃなく、歌を捧げる存在だった。ならば歌そのものに、何か秘密があるはずです。古代の言語でしか伝えられない、精霊との対話法が」
雲が流れ、月が再び姿を現す。
その光のなかで、セラフィーナは初めて、かすかに微笑んだように見えた。
「あなたは、変な人」
「よく言われます」
「でも……ありがとう」
彼女は踵を返し、立ち去ろうとした。が、二歩ほど歩いたところで、ふと振り返る。
「レンフリート様」
「はい」
「もし歌なら、古い聖歌のなかに、とても奇妙なものがあります。正式な儀式ではもう歌われませんが、修道女たちがこっそり口にする古い子守唄のようなものです」
「どんな歌です?」
「タイトルは──『星霜の繭』」
どくり、とレンの心臓が跳ねた。
「星霜の、繭……?」
「ええ。意味はわかりません。でも歌詞のなかに、何度も『ウツロイ』という言葉が出てきます。私はずっと、ただの古語だと思っていました。でも、さっきあなたが言った……」
「それです、きっと。その歌を教えてください」
「長い歌です。明日の夜、もう一度ここで」
そう言って、セラフィーナは今度こそ闇のなかに消えた。
ひとり残されたレンは、祠の石段に座り込み、空を仰いだ。
星霜の繭。
美しい響きだった。繭はやがて孵るものだ。ならば、ウツロイはいつか誰かとともに、その繭を破って生まれ変わる日を待っているのだろうか。
レンは拳を握りしめた。
洞窟には竜はいない。いるのは、千年の孤独を抱えた花の精霊。
そして今また、百年目の生贄を名乗る少女が、自分の命とひきかえに何かを捧げようとしている。
ふたりのあいだを繋ぐもの。それはおそらく、古代の歌と、真実を知ろうとする者の意思だ。
レンは立ち上がり、図書館へと急いだ。夜はまだ、長い。だが七日という刻限は、あまりにも短かった。
今夜は、眠れそうになかった。




