第三章 地下聖堂の黙示 1
王都グランツシュタインは、七つの丘の上に築かれていた。
大傾斜大陸の第三階層でもっとも広大な平地を見下ろすこの都は、七柱の梯子神それぞれに捧げられた七本の尖塔を中心に、同心円状に広がっている。中心に行くほど身分が高く、外縁に行くほど低くなる。まさに神の序列を地上に刻んだような都市計画だった。
レンが王都の南門をくぐったのは、屍衣谷を越えてから五日目の夕暮れである。
門を入ってまず圧倒されたのは、その色彩の氾濫だった。領都アルベリヒでは考えられないほど、多種多様な人々が行き交っている。第三階層の標準語である現代ザクセン語だけでなく、低層からの出稼ぎ労働者が話す下層方言、遠く第二階層の交易都市から来た商人たちの甲高い通商語、さらにはこの大陸の公用語のひとつである古参の貴族たちの帝国語まで、いくつもの言語が入り混じって街の喧騒を形作っていた。
露店には見たこともない果物が並び、香辛料の匂いが鼻を刺す。大道芸人の奏でる三弦琴が、どこか哀調を帯びた旋律を奏でている。道の片隅では、痩せた浮浪者が壁にもたれて眠り、その頭上では伝書鳩の群れが夕空を旋回していた。
すべてが多く、すべてが速い。
レンはしばらく馬を停め、その光景に見入った。だが彼の眼は、喧騒の裏にあるものをも捉えている。街全体を覆う魔素の層が、中心の大神殿に向かってゆるやかに吸い寄せられていく流れを。それはまるで、都市そのものがひとつの巨大な生命体であり、大神殿がその心臓であるかのようだった。
(この街の魔素の流れ……どこか不自然だ)
レンは眉をひそめる。自然の地形に沿った流れにしては、整流されすぎている。まるで人為的に設計された水路のように、魔素が特定の方角へと誘導されている。これほどの規模の魔素制御は、通常の魔導では不可能なはずだ。
だが、今はその謎に深入りしている時間はない。
彼はまず、古文書館で紹介状を書いてくれたエーベルハルト老の旧友を訪ねることにした。大神殿付属図書館の司書補を務めるという、ガブリエルという老人である。
馬を宿に預け、レンは石畳の坂道を上っていった。
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大神殿付属図書館は、七つの尖塔のうち第五の塔《光の梯子》のふもとにあった。
高さは優に三十メートルを超える石造りの円筒建築で、壁面には無数の魔導灯が埋め込まれ、夜になっても内部は昼間のように明るい。蔵書数はおよそ十二万巻──この大陸でも五指に入る規模である。
入口で紹介状を見せると、初老の司書見習いが奥の閲覧室へと案内してくれた。天井まで届く書架が迷路のように立ち並ぶなか、レンはもっとも奥まった机で、ひとりの老人と対面した。
ガブリエルは、七十歳前後だろうか。痩せて背の曲がった、しかし目だけは驚くほど若々しい輝きを湛えた人物だった。
「エーベルハルトから話は聞いておる。なるほど、お主が『焦点の合わぬ若旦那』か」
「……そんな渾名がついてるんですか」
「あの堅物が珍しく褒めておったぞ。『自分の眼をまったく信用せず、文献に当たる若者がいる』とな」
レンは少し照れくさくなり、話題を変えた。
「ガブリエルさん、今日はお願いがあって参りました」
「言うてみよ」
「地下聖堂の原本を、見せていただけないでしょうか」
一瞬、ガブリエルの手が止まった。彼は机の上の写本を閉じ、あたりに人気がないことを確認してから、声を潜める。
「若旦那、正気か。地下聖堂は聖職者以外、立ち入り禁止ぞ。それも司教級以上でなければ扉すら開けられぬ」
「わかっています。ですが、どうしても確認したいことがあるんです。《梯子創世記》の第七神の項目が、千年ほど前に書き換えられている痕跡を、領都の写本で見つけました」
ガブリエルの目が、さらに細くなる。
「……それを確かめるために、原本を見たいと」
「はい」
「よしんば書き換えが事実だとして、お主はどうする」
レンは、すうと息を吸った。
「今年の昇華の儀を、止めたいんです」
空気が、凍りついたようだった。
ガブリエルはしばらく無言でレンを見つめ、やがて深くため息をついた。
「若いな。いや、若さゆえの蛮勇を嗤うのではない。じゃがな、相手はこの大陸でもっとも強大な宗教権力ぞ。生贄制度を根幹から揺るがすような真実など、かりに存在したとして、それを公にできると思うか」
「公にするかどうかは、まだわかりません。でも、知らないまま何もしないのは、耐えられないんです」
レンの声は静かだったが、その奥には奇妙な強さがあった。あの祠の前で見た少女の、深い青の瞳が、脳裏に焼きついて離れないのだ。
ガブリエルはしばらく何かを考え込むように宙を見つめ、やがて決心したように椅子を引いた。
「……ついてまいれ。誰にも言うなよ」
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図書館の最奥、禁書庫のさらに奥に、その入口はあった。
ガブリエルが壁の燭台のひとつをねじると、石壁の一部が音もなく奥に引っ込む。現れたのは、狭い螺旋階段だった。湿った空気が下から吹き上げてきて、レンの頬を撫でる。
「この先が、大聖堂の地下聖堂に通じておる。本来、ここは戦時に聖職者たちが逃げるための隠し通路でな。今はもう、わしのような老いぼれくらいしか知らぬ道だ」
ふたりは階下へと降りていった。石段は湿気で滑りやすく、壁には古い苔が這っている。二十段ほど降りたところで、ガブリエルは立ち止まった。
「ここから先は、魔導の罠が仕掛けられておる。わしにできるのはここまでじゃ」
「罠……」
「本来なら、大神殿の許可を得た聖職者が正面から入り、魔導の鍵を解除する。この隠し通路も、それをすり抜けることはできん。つまり、ここから先はお主ひとりだ」
レンは頷いた。そして、目を凝らす。
暗がりの向こう、通路の先に、うっすらと光る魔素の格子が見えた。それはまるで蜘蛛の巣のように張り巡らされ、侵入者を感知する仕組みになっている。光の糸の一本一本が、空気中の魔素の流れに連動して静かに震えている。
「若旦那、もし捕まればただでは済まんぞ。貴族といえど三男坊、それも地方の小貴族の子が、無断で地下聖堂に侵入したとなれば……」
「わかっています。でも、やるんです」
レンは靴を脱ぎ、足音を消した。そして壁に手を当て、魔導罠の構造をじっくりと観察する。
(あの格子……魔素の流れが一定の周期で変動している。ということは、感知範囲も周期的にズレが生じるはず)
彼の眼は、魔素の波が引く瞬間を正確に捉えていた。前世で海洋の潮流を研究していた経験が、ここで生きる。潮の満ち干を見極めるように、魔素の波のリズムを読む。
(今だ)
レンは身体をかがめ、格子の下のわずかな隙間を滑り込んだ。背中が石床に擦れて痛むが、気にしていられない。続いて第二の格子、これは縦に波打つ魔素の帯だ。彼は息を止め、波が左右に分かれる瞬間を見極めて、その間をすり抜けた。
三度の罠を越えた先で、ようやく通路は開けた。
地下聖堂。そこは、想像をはるかに超える空間だった。
天井高は十メートルを優に超え、壁には七柱の梯子神の壮麗な壁画が描かれている。中央には巨大な石棺が据えられ、その周囲を取り巻くように無数の石版が立てかけられていた。どれもが一千年以上の時を経た、原本中の原本だ。
空気はひんやりと澄み、かすかに香の残り香が漂っている。レンは足音を忍ばせ、目的の石版を探した。
第七神ウロボロの石版は、聖堂の最奥、もっとも神聖視される場所に安置されていた。
高さ二メートルほどの黒曜石の石板だ。表面には古ザクセン語がびっしりと刻まれ、その文字の一本一本がかすかに青白い燐光を放っている。魔法を込めて刻まれた証だ。
レンはその石板の前に立ち、息を呑んだ。
領都の写本では書き換えられていた「千年の刻みに一度」という部分。原本では、こう刻まれていた。
《第七の神は、自らの尾を食む円環の竜。生と死をひとつに繋ぎ、天と地を結ぶ梯子なり。百の年の刻みに一度、地に降りて花の蜜を啜り、再び天へと帰らん。その蜜をもたらすは、歌詠みの巫女。巫女は竜と歌交わし、永遠の円環を巡る》
レンは、何度も読み返した。
「千年」が「百の年」に。
「若き血を啜る」が「花の蜜を啜る」に。
「巫女は竜の血となりて」が「巫女は竜と歌交わし」に。
「人の娘たる生贄」が「歌詠みの巫女」に。
書き換えられているのは、三箇所ではない。五箇所だ。そしてそのすべてが、竜という存在をより凶暴に、儀式をより血腥いものに演出する方向に捻じ曲げられている。
(そんな……これは完全に……)
しかし、レンの目をさらに奪ったものがある。
石板の最下部、ほかの文字よりも幾分か細く、慌てた筆致で刻まれた追記だ。古ザクセン語でも古い書体で、解読に手間取るが、彼はひとつひとつの文字を追った。
《されど、竜はやがて滅びぬ。星霜七たび巡るのち、その骸に一輪の花咲かん。花の名を“ウツロイ”という。この花こそ、竜の遺志を継ぎ、ひとり円環を守る者なり。誰か、この記述を後の世に遺す。花がもし、孤独に枯れゆくならば、そのときこそ梯子は断たれん》
「ウツロイ……」
レンの口から、その名がこぼれ落ちた。
その瞬間、彼の眼が捉えたものがある。
石板の表面に残された、かすかな魔素の痕跡。追記を刻んだ書き手の、千年前の魔力の残滓だ。それは他の文字とは明らかに異なる色をしていた。金でも銀でもない、淡い植物の芽吹きのような若草色の輝き。
(この追記を書いたのは……人間じゃない?)
魔素の色は書き手の魂の質を反映する。人間の魔素は通常、青から紫の波長を持つ。だがこの若草色は、レンがかつて一度だけ見たことのある色だった。
領都の古文書館で、古い植物標本の魔素を調べたときの色に、あまりにも似ている。
「精霊……それも、植物系の」
そこで、背後で足音がした。




