第二章 屍衣と忘却の谷 2
その頃、王都の修道院では。
セラフィーナは、石造りの小部屋の窓辺に立っていた。
《託身の禊》の最終日。彼女はすでに七日間、外界との接触を絶たれ、この修道院の一室で神への祈りと断食を続けている。窓の外からは、中庭に植えられた月光花の甘い香りが、秋の夜風に乗って流れ込んでいた。
部屋の中は簡素そのものだ。
寝台、小さな祭壇、そして机の上には一冊の聖典だけ。祭壇の蝋燭が、彼女の銀色の髪をぼんやりと照らし出している。
扉が、ノックされた。
「セラフィーナ様、お食事をお持ちしました」
老修道女の声だ。
「ありがとう。でも、今はまだ」
「ですが、もう七日……お身体がもちません」
「あと少しだけ、祈らせてほしいの」
老修道女はしばらくためらい、やがて静かに去っていった。
ひとりになったセラフィーナは、窓辺に戻り、空を仰いだ。
大傾斜の夜空には、今日も逆さの天の川がかかっている。あの光は死者の魂が下層へと降りていく道だと、小さい頃に母から聞かされた。
彼女は目を閉じ、記憶のなかの母に語りかける。
──お母様。私はあと十日で、竜神様のもとへ参ります。
──これが最後のお別れだと、先日も祠の前でご挨拶しました。
──でも、今朝、不思議な夢を見たのです。
──私を知らない少年が、どこかの図書館で竜のことを調べていました。
──ありえないことです。私のことを知らぬ貴族の子など、この国にはいないはず。
──でも夢のなかの私は、なぜだか少しだけ、ほっとしていました。
──どうしてなのでしょう。
彼女は目を開け、左手の薬指に光る細い銀の指輪を見つめた。母の形見だ。この指輪をはめたまま、竜の祠に入ることを彼女は許されている。
(せめて、最期に何か……)
そこまで考えて、彼女はかぶりを振った。
すでに何年も前に、決意はできているはずだった。
父のため。ローゼンクロイツ家の名誉のため。そして何より、この国に住まうすべての人々の平安のために、自分は竜神のもとへ行くのだ。
それは彼女が幼い頃から言い聞かされてきた使命であり、存在理由そのものだった。
それなのに。
「お別れです」
あの祠の前で、領都の若者にかけた言葉が、なぜかまだ喉の奥に刺さっている。彼は、自分の魔素の流れを見ていた。そんな目で自分を見た人間は、今までひとりもいなかった。
彼は、何を見たのか。
そしてなぜ、自分はあんなことを口にしたのか。
(これ以上考えても、詮無いことです)
セラフィーナは蝋燭を吹き消し、闇のなかで目を閉じた。
明日になれば、大神殿で正式な任命式が行われる。すべての貴族が集まり、自分は正式に《竜の巫女》として祝福を受けるのだ。そこに、あの少年がいるはずもない。
そう思うことで、彼女はどうにか眠りにつこうとした。
だが、夢のなかで彼女は、もう一度だけ、あの少年の奇妙に焦点の合わない、それでいて何もかもを見透かすような瞳と向き合うことになる。
──と、そのときだった。
闇のなかで、かすかな羽音が聞こえた。
窓の外からだ。
彼女が目を開けると、窓辺に一羽の鴉がとまっていた。
否、ただの鴉ではない。その羽は闇よりも黒く、眼は血のように赤い。そして何より、その身体はわずかに透けていて、向こう側の月明かりが羽を通して滲んで見えた。
忘れ鴉。
この大陸の伝承に語られる、魔獣の中でも最も不気味な存在のひとつ。死者の記憶を喰らうという、半ば霊的な存在だ。飼い主を失い野生化したものが、今でも各地に生息している。
(なぜこんなところに)
警戒したセラフィーナだったが、鴉は意外にも静かだった。ただ窓辺で彼女を見つめ、くちばしを数度かちかちと鳴らす。
その嘴の先に、かすかに絡まっていた。
白い繭のような糸がひとすじ。
屍衣苔の、菌糸だ。
鴉はそれを置くと、翼を広げ、音もなく夜の闇へと消えていった。
セラフィーナは窓辺に歩み寄り、菌糸の切れ端をそっと摘み上げた。
それはまだ生きた菌糸で、彼女の指先の魔素に反応して、かすかにうごめいている。
「……あなたは今、どこに」
彼女のその言葉が、具体的に誰に向けられたものなのか、自分でもわからなかった。
ただ、屍衣谷の方向から吹いてくる風が、この夜にかぎって、やけに優しく感じられた。
そうして夜は更け、あらたな一日が始まろうとしている。
王都まで、あと四日。
レンとセラフィーナ、ふたりの運命の糸は、まだ細く、脆く、それでも確かに手繰り寄せられようとしていた。




