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星霜の繭 ~最後の竜司祭は静かに祈る~  作者: 夜空スケッチ


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第二章 屍衣と忘却の谷 1

朝霧が、まだ溶け残っていた。


レンは馬の腹を軽く蹴り、街道のぬかるみを避けて進んだ。ヴァレンタイン家の厩舎から借り出したのは、軍馬には及ばないが長駆に耐えるガルニエ種の栗毛馬だ。鞍の横には、最低限の着替えと、エーベルハルトが餞別にくれた古い地図、それから筆写用の羊皮紙と墨壺を詰めた革鞄をくくりつけてある。


王都グランツシュタインまでは馬で五日。単独行には危険な道のりだが、領都アルベリヒから王都へ向かう定期の隊商があることを、彼は前夜のうちに酒場で聞き込んでいた。今はその隊商の最後尾に、相乗りという形でつけさせてもらっている。


馬車は全部で十三台。護衛の傭兵が十人。商人や行商人、巡礼者など、隊商全体の人数は五十を超える。


「おい若いの、ぼんやりしてると落ちてくぞ。次は屍衣谷だ」


隣を歩く傭兵の男が、頬に刻まれた古傷を歪めて笑った。名をゴッツという、このあたりでは名の知れたベテラン傭兵だ。


「屍衣谷……あの、白い霧の」


「そうだ。《屍衣苔》の群生地帯よ。霧みてえに見えるが、あれ全部カビの胞子だ。吸い込めば肺が腐る。肌につけばただれる。馬も人も、ここを通る時は泣きべそをかく」


なるほど、とレンは前方に目を凝らす。


谷の入り口から先、空気の色が変わっていた。白い、ほとんど牛乳のような濃密な靄が、谷底をまるで生き物のように這い回っている。時折、靄の薄れた隙間から、無数の白い苔に覆われた枯れ木のシルエットが現れては消えた。どれもこれも、かつて樹木だったものの亡骸だ。屍衣苔は生きている樹木には寄生しないが、枯れ木や動物の死骸には瞬く間に広がる。


「口元を布で覆え。肌は絶対に出すな。それと──絶対に、靄に触れるなよ」


隊商の先頭から、警戒の角笛が鳴り響く。


一行はゆっくりと、屍衣谷へと足を踏み入れた。


空気が、重い。レンは前世で経験したことのある、深海潜水時の水圧を思い出した。身体全体を押し包むような、目に見えない重さ。そして、ひどく冷たい。季節はまだ秋半ばだというのに、吐く息が白くなるほどの冷気が谷底から吹き上げてくる。


魔素の流れが、おかしい。


彼の眼は、靄の一本一本が、まるで意志を持つ触手のようにうねりながら魔素を吸い上げているのを捉えていた。屍衣苔の菌糸は、空間中に溶け出した魔素どころか、生物の皮膚から滲み出る微弱な生命力すらも吸収するらしい。道端には、苔に覆われた小動物の死骸がいくつも転がっている。狐、野兎、そして──。


「人だ」


レンの呟きに、ゴッツが顔を顰める。


「先月、ここを通ろうとした行商人の若い衆だ。馬が驚いて振り落とされ、靄の中に姿を消した。仲間も助けられなかった。こうなるのは、時間の問題だってのにな」


人型のそれは、すでに全身が分厚い白い苔に覆われ、服も肌も性別もわからなくなっていた。ただ、わずかに突き出た右手の指先だけが、何かを掴もうとするように曲がったまま硬直している。


(百五十秒だ)


レンは心のなかで秒を数えながら、屍衣苔の生態を観察していた。


前世の知識でいえば、これはある種のキチン質を分解する腐生菌に似ている。だが決定的に違うのは、菌糸の先端が微弱な魔素を感知して伸長するという点だ。ゆえに、魔力の強い人間ほど標的にされやすい。


「止まれ! 前方で落石だ!」


先頭から怒号が飛ぶ。同時に、地響きが谷を揺るがした。


見ると、前方五十メートルほどの崖の上から、人間の頭ほどの岩がいくつも転がり落ちてきている。馬が嘶き、御者たちが慌てて手綱を引く。落石自体は、人家ひとつ分ほど手前で止まった。直撃は免れた。


だが。


「……しまった」


レンの眼は見ていた。落石の衝撃で、谷底に堆積していた屍衣苔の菌床が無数に砕け、濃密な胞子の雲が爆発的に空中へと舞い上がるのを。


傭兵のひとりが、悲鳴を上げた。


「目が! 目がああっ!」


若い兵士が顔を覆って地面に倒れ伏す。ほんのわずか、靄が薄くなったからと布を外した隙に、胞子が眼球に付着したのだ。仲間が慌てて水をかけるが、もう遅い。白濁した瞳の表面で、見る見るうちに白い菌糸が網の目のように広がっていく。


「全員、走れ! この場を離れるぞ!」


隊長の号令一下、隊商は駆け足で谷を抜け始めた。馬車が軋み、積荷が揺れ、商人たちの悲鳴と怒声がこだまする。レンも馬を駆って、猛烈な勢いで突き進む。


ふと、横を見た。


谷の壁面に、巨大なものが張りついている。


最初は岩かと思った。だが、違う。


それは明らかに、巨人の形をしていた。高さは優に四メートルを超える。全身を屍衣苔に覆われ、白い繭のような姿で谷壁に同化している。胸のあたりに、かつて心臓を貫いたとおぼしき古い槍が突き立ったままだった。


屍衣苔の巨人──大傾斜統一戦争の時代に戦死した巨人族の亡骸が、一千年の時を経て、屍衣苔と完全に共生したものだ。文献でしか読んだことのないそれが、今、目の前にいる。


そして、動いた。


「……起きるな」


レンは無意識に呟いていた。


巨人の頭部と思しき部分が、ゆっくりとこちらを向く。白い苔に覆われた顔面に、眼窩のくぼみだけが二つ、ぽっかりと暗く口を開いている。


「ゴッツさん、あれを」


「見るな! 気づかれる!」


だが、すでに遅い。


巨人の身体から、夥しい量の胞子が放出された。単なる浮遊胞子ではない。それは空中で一箇所に集まり、人間の腕のような形を形成しながら、狙いを定めて鞭のようにしなった。


狙いは、隊商最後尾──レンたちだ。


(魔素の流れが、あの胞子の束を誘導している!)


彼の眼には見えていた。巨人の身体から伸びる無数の魔素の糸が、まるで傀儡師の指先のように、胞子の鞭を自在に操っている。これは単なる反射や本能ではない。明確な捕食行動だ。


「伏せろ!」


ゴッツが叫んだ。しかし間に合わない。


鞭が唸りを上げて振り下ろされる。レンは馬の手綱を引き、とっさに鞍から飛び降りた。地面に転がりながら見上げると、ついさっきまで自分がいた馬の背が、白い鞭に薙ぎ払われていた。栗毛の馬は驚いて嘶き、後脚で立ち上がる。


かろうじて躱した、一撃目。


だが第二撃が来る。


──見える。


レンの眼は、胞子の鞭を構成する何億という菌糸の一本一本を、個別に認識していた。菌糸の先端にある魔素受容体が、空気中の魔素の勾配を読み取り、鞭全体の軌道をリアルタイムで修正する仕組みを。その精緻な制御ネットワークの、かすかな遅延と偏りを。


(右だ。右から巻き込むように来る)


レンは地面を蹴った。鞭が彼の左耳のすぐ横をかすめ、背後の枯れ木を粉砕する。木片が頬を切ったが、かまっていられない。


「小僧、伏せてろ!」


ゴッツが大盾を構えて割り込んだ。傭兵として数々の戦場を生き抜いてきただけある。彼は盾の表面に魔除けの聖油を塗りつけ、胞子の侵入を防ぎながら巨人に向かって突進した。


だが、この巨人に正面から挑むのは無謀だ。


「ゴッツさん、足です! あれの弱点は、谷の壁面に張りついている足の付け根です!」


「なに?」


「本体はこの千年、壁から一度も動いていません。つまり菌床と壁の間に、本体を固定している古い腱か何かがあるはずです。そこが構造的に最も脆い!」


レンの声に、ゴッツは一瞬だけ後ろを振り返った。


「どうしてそんなことがわかる」


「見えてるんです」


「……妙な小僧だな、お前」


ゴッツはにやりと笑うと、進路を変えた。巨人の足元へと突っ込んでいく。仲間の傭兵ふたりも、彼の意図を察して後に続く。


巨人の注意が、ゴッツに向いた。おびただしい胞子の鞭が、今度はすべて彼に集中する。


「今だ!」


レンは走った。狙うは、巨人の胸に突き立った古い槍だ。


あの槍──おそらくは統一戦争当時の魔導兵装だろう。千年の時を経てなお、穂先にはかすかに治癒阻害の呪いが残っている。屍衣苔の異常な増殖力をもってしても、その周囲だけは菌糸の密度が薄い。


彼が跳躍し、巨人の腕に取りすがったのは、ほとんど無我夢中だった。


触れた箇所から、じゅっと音がして掌が焼けるように痛む。手袋越しでも胞子が繊維を食い破ろうとしている。だが、それでもここで手を離せば、ゴッツたちが危ない。


指が、冷たい金属に触れた。


槍の柄だ。


「──動くなあっ!」


全身の力で、レンはその槍をへし折らんばかりに横殴りに蹴り飛ばした。


ミシリ、と嫌な音がして、槍が根本から傾ぐ。同時に、槍の穂先に封じられていた千年越しの治癒阻害呪力が、巨人の体内で一気に解放された。


巨人の全身から、断末魔のような魔素の咆哮が迸る。


屍衣苔が、次々と剥がれ落ちていく。白い雪崩のような崩壊が巨人の全身を駆け巡り、やがてその巨体は自重に耐えかねて、膝から崩れ落ちた。


ゴッツたちがすかさず、露出した足の腱に斧を叩き込む。


巨人は最後にかすかな振動を残し、完全に動かなくなった。


静寂が、谷に戻る。


白い胞子の雪が、静かに、静かに降り積もるなかで、レンは地面に膝をつき、息を整えた。手のひらを見ると、手袋は溶け、皮膚が赤く爛れている。だが、骨は無事だ。


「……生きてるか、変な小僧」


ゴッツが肩で息をしながら近づいてきた。その顔は、半分呆れ、半分感心したような表情だった。


「なんとか」


「お前、目ぇ悪いんだってな。焦点が合わねえって聞いたぜ」


「ええ、まあ」


「だが、見えてねえんじゃねえ。見えすぎてんだな、お前は」


ゴッツはそれだけ言うと、レンの手を引いて立ち上がらせた。


先頭で落石に巻き込まれた若い兵士は、結局、右目を失った。だが、それだけの被害で済んだのは奇跡に近いと、隊商の仲間たちは口々に言った。


レンは自分の馬が無事だったことを確認すると、鞍に結んだ鞄から新しい手袋を取り出し、爛れた手に巻いた。傷は痛んだが、それよりも頭の中は、別のことでいっぱいだった。


(あの巨人……心臓に槍を受けてなお、千年も死にきれなかったんだ)


それはまるで、祠で祈っていたあの少女が背負っていたものと同じ、何かに縛られた魂のようだと思った。


屍衣谷を抜けると、空は一転して晴れ渡っていた。


前方には広大な穀倉地帯が広がり、その地平線の彼方に、王都グランツシュタインの七本の尖塔が、白く光って見える。


隊商は失ったものと得た傷を抱えながら、ゆっくりと先を急いだ。

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