第一章 灰かぶりの三男
油蚕の糞が、かさり、と音を立てた。
梁の上で飼われている油蚕が桑の葉を食む微かな振動が、埃まみれの天井から粉雪のように降り積もる。レンはそれを、ぼんやりと見上げていた。朝日の差し込まぬこの薄暗い食堂では、油蚕の糞の一粒一粒さえもが、かすかな魔素の残滓を帯びて青白く光って見える。彼にしか見えない光だった。
「レンフリート様、スープが冷めます」
乳母のマルタがくたびれた木匙を差し出す。皿代わりの黒パンの上に盛られた豆の煮込みが、とろりと湯気を立てている。レンは視線を落とし、スープの表面に浮かぶ虹色の油膜を見つめた。トラヒシバの豆を煮込むときにしか出ない、独特の輝きだ。この油は油蚕の体内で精製された蝋質で、貧しい小貴族にとっては貴重な脂源だった。
「ありがとう、マルタ」
スプーンを口に運ぶ。塩気の奥に、ほのかに苦い魔素の味がした。普通の人間にはわからない味だ。レンの舌は、食材に残留する微量の魔力すらも感知してしまう。
ヴァレンタイン子爵家の三男、レンフリート・ヴァレンタイン。前世の記憶を持ってこの世界に生を受けた彼は、十五歳になった今も、この家の「出来損ない」だった。
魔力は低く、剣の才もなく、社交の場ではいつも宙を見つめてぼんやりしている。長男のクラウスはすでに王都の騎士団で小隊長を務め、次男のエーリヒは魔導学院を主席で卒業した。それに引きかえ、この三男ときたら。
「また図書館ですか」
マルタが諦めにも似た口調で言った。
「『大梯子神典』の古ザクセン語訳を調べたくて」
「はあ……そんな埃っぽいところばかり。お身体に障りますよ」
レンは曖昧に微笑んで、黒パンの縁をちぎった。
彼が図書館に通うのは、単なる学問的興味からではない。この世界の魔素の流れと、前世で研究していた海洋の潮流、プランクトンの回遊パターンがあまりにも似ていたからだ。それを証明するためには、この世界の神話や歴史、言語の構造を理解しなければならない。
そして何より。
窓の外、はるか北の空にそびえる「神梯嶺」の山並みを見やりながら、レンはスープを啜った。あの山のどこかに眠るという《最後の竜》のことが、どうしても頭から離れなかった。
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ヴァレンタイン子爵家の領地は、大傾斜大陸の中腹、通称「第三階層」に位置している。巨大な階段状の大陸は、標高が下がるごとに気候も生態系も文化も異なり、人々はそこに住まう神々の序列をそのまま地上に写し取ったような秩序の中で生きていた。
レンが馬を駆って領都アルベリヒに着いたのは、朝の鐘が鳴り終わる頃だった。
舗装された石畳の上を、水運びの女たちが甕を頭に乗せて歩いてゆく。露店からは、香辛料と燻製肉の匂いが混ざり合って立ちのぼる。鍛冶屋の槌音、機織り機の規則正しい軋み、そしてどこからか聞こえる子供たちの「梯子歌」──。
《一段目は土の神、畑を耕せ》
《二段目は水の神、雨を呼びませ》
《三段目は火の神、竈を焚けよ》
《四段目は風の神、帆を膨らませ》
《五段目は光の神、文字を教えよ》
《六段目は闇の神、死者を見送れ》
《七段目は生命の神、子を産みなさい》
七柱の梯子神。その第七位にして最上位、「生命の梯子」ウロボロこそが、竜の姿を取る神とされていた。だが、わかっていることは少ない。なぜなら、梯子神の神話は口承が禁じられており、すべての記録は各都市の大聖堂に厳重に保管された石版にのみ刻まれているからだ。
レンの目的地である領都立古文書館は、大聖堂の裏手にある古びた石造りの建物だった。入り口の閂を押し上げ、薄暗い室内に足を踏み入れる。かび臭い紙とインクの匂い。そして、静寂。
「おや、若旦那。今日も精が出ますね」
古書管理人の老司書エーベルハルトが、積み上げられた写本の山の向こうから顔を出した。片眼鏡をかけた初老の男で、この領都で唯一、古代語の解読ができる人物だ。
「エーベルハルトさん、今日は《梯子創世記》の古ザクセン語版を見せてほしいんです。特に、第七神ウロボロの項目を」
「また随分と古いものを……。よろしい、ただし先日お貸しした『魔素波動論序説』の感想を聞かせてもらいますよ」
レンは苦笑しながら頷き、指定された閲覧席についた。
やがて運ばれてきたのは、羊皮紙を何重にも貼り重ねた巨大な冊子だった。表紙には銀の留め金が打たれ、保管用の香草が挟み込まれている。ページを開くと、古ザクセン語の角張った文字がびっしりと並んでいた。
この大陸で使用されている現代ザクセン語は、かつての征服者たちがもたらした古ザクセン語が簡略化されたものだ。文法は単純化し、語彙も大きく入れ替わっている。しかしレンには、前世で培った言語学の知識がある。何より、彼の眼は文字の上に漂う魔素の痕跡すらも捉えることができた。古い時代の筆記者が込めた魔力の残滓が、インクの粒子の間にきらめいている。
第七神ウロボロについては、このような記述があった。
《第七の神は、自らの尾を食む円環の竜。生と死をひとつに繋ぎ、天と地を結ぶ梯子なり。千年の刻みに一度、地に降りて若き血を啜り、再び天へと帰らん。その血をもたらすは、人の娘たる生贄の巫女。巫女は竜の血となりて、永遠の円環を巡る》
若き血を啜る。人の娘が血となる。どれもこれも、現代の公式な教義では「竜神との合一による魂の浄化」と美しく言い換えられている内容だ。
だが、レンはこの記述の異様さに、ずっと引っかかっていた。
「円環を巡る」という表現。本来、ウロボロは終わりのない循環を象徴する神のはずだ。だとすれば、なぜ「若き血」が必要なのか。循環する存在に、外部からの供給が必要な理由とは。
そして、もうひとつ。これは彼の眼が捉えた異常だった。
このページに残された古い筆跡の魔素の痕跡を、彼はじっと見つめる。
「……書き直されてる」
第七神の項目の一部。具体的には「千年の刻みに一度」という部分。その文字の上には、かすかに異なる筆記者の魔力が重ね書きされている。つまり、後世の誰かが、この記述を改変した痕跡だ。
「エーベルハルトさん、この冊子の成立年代は」
「さあ……原本は千二百年ほど前、大傾斜統一戦争の頃ですね。ただそれはあくまで写本で、原本自体はさらに二百年は遡るかと」
「その原本を直接見ることは?」
老司書は難しい顔で首を振った。
「原本は王都グランツシュタインの大聖堂地下聖堂に厳重に保管されております。閲覧はおろか、筆写すら高位聖職者にしか許されませんな」
レンは小さく息を吐き、ページを閉じた。やはり梯子神話の核心に迫るには、ただの地方貴族の三男では権限が足りない。
だが、彼にはもうひとつ、梯子神話に近づく別の道筋があった。
「そういえば若旦那、聞きましたか? 今年の《昇華の儀》の生贄が、ついに決まったそうですよ。なんでも今度は、ローゼンクロイツ公爵家のご令嬢だとか」
レンの指が、羊皮紙の上で止まった。
《昇華の儀》。百年に一度、竜神ウロボロのもとに生贄の乙女を送り出す大祭。この大陸全土を巻き込む最大の宗教行事であり、生贄に選ばれることは最大の名誉とされていた。
「公爵家の……令嬢が」
「ええ。セラフィーナ様、だったか。お年は十七。王都でも指折りの才媛だそうで。それがたったひとりで、あの神梯嶺の洞窟へ入っていくのですから……ほんに、頭が下がりますな」
老司書はうやうやしく天を仰いだが、レンは俯いたままだった。
彼の眼には、大聖堂のステンドグラス越しに差し込む夕陽が、血のように赤く見えていた。
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古文書館を出たのは、すっかり日が暮れた後だった。
領都の街並みは、油蚕の脂を固めた蝋燭が各所で灯りはじめ、橙の光が石畳に揺らめいている。昼間はあれほど賑わっていた露店も店じまいを始め、人々はそれぞれの家路についていた。
レンは人通りの少ない裏通りを選んで、馬を繋いだ厩舎へと向かった。
そのときだった。
裏通りの角の小さな祠の前で、ひとりの少女が跪いているのに気づいたのは。
黒いヴェールを頭からすっぽりと被り、両手を組んで何かを祈っている。祠には第七神ウロボロの象徴である「尾を食む蛇」の石像が祀られていた。
ごくありふれた光景のはずだった。だがレンは、思わず足を止めた。
彼の眼が、とらえた。
少女の周囲の魔素が、尋常ではない動きをしている。
通常、人間の身体から発せられる魔素は、呼吸に合わせてゆるやかに拡散していくものだ。しかし、この少女から流れ出る魔素は──まるで巨大な渦の中心のように、周囲の大気中に漂う魔素を吸い寄せ、束ね、静かに天へと立ち昇らせていた。それはレンが前世で飽きるほど見てきた、海底の湧昇流、深海から表層へと栄養塩を運び上げる神秘の水流とまったく同じ動きだった。
「……なんだ、これは」
思わず呟いた声に、少女が振り返る。
風が吹き、ヴェールの端がめくれた。
その下から現れたのは、透き通るような白い肌と、月光を溶かしたような銀の髪、そして──何の感情も読み取れない、深い青の瞳だった。
少女はすぐにヴェールを直し、足早に立ち去ろうとした。その動きに、レンは咄嗟に声をかけていた。
「……祈りを、捧げていたんですか」
少女の足が止まる。振り返らず、しかし背を向けたまま、彼女は静かに答えた。
「祈りではありません」
「では」
「──お別れです」
それだけ言うと、彼女は今度こそ闇の中に消えた。
残された祠のろうそくが、ふっと揺らめく。
レンは、自分の心臓が早鐘を打っているのを自覚していた。彼の眼はもう、何も捉えてはいなかったが、それでもあの魔素の渦の残像が網膜に焼きついて離れない。
(あの人が、セラフィーナ・ローゼンクロイツ……?)
百年の生贄が、彼女だとすれば。
お別れ──それは何に別れを告げる言葉なのか。
この世界に。家族に。あるいは、自分自身に。
レンは拳を握りしめ、暗くなった空を見上げた。大傾斜の夜空には、下層から立ち昇る魔素の光が、まるで逆さまの天の川のように輝いていた。
その光の筋の途切れる先に、神梯嶺の黒いシルエットが、ひときわ暗く口を開けて待っている。
(あの洞窟に、本当に竜はいるのか)
(あの記述の書き換えは、何を隠している)
(そして──彼女は、何を知っている)
十五歳の少年の胸に、初めて明確な決意の火が灯った瞬間だった。
それは後に、千年の孤独を終わらせる、小さな、しかし確かな最初の一歩となる。
彼は再び歩き出した。今回はもう、俯いてはいなかった。




