第6話 密室の鍵穴と、臙脂色の蝋印(前編)
朝の記録室に、エリオットが飛び込んできた。
珍しい。エリオットが走ることは、まずない。
常に適切な速度で移動する男だ。それが今日は、扉を開ける前から足音が速かった。
「ルシル、仕事だ」
「……ん」
「王都中央区の聖ベルナール礼拝堂で、司祭が密室の中で死んでいた」
「……密室」
「礼拝堂の扉は内側から鍵がかかっていた。窓は全部格子付きで、人が通れる大きさではない。どうやっても外から人が入れない状況で、司祭が死んでいた」
「……」
「上は『神の御召し』として記録したいようだ」
「……神の御召し」
「そういうことだ」
「……神は人を、内側から鍵のかかった部屋で殺しますの?」
「俺に聞くな」
ルシルは黒パンを置いた。半分しか食べていなかったが、懐に入れた。
「行く」
「食べてから――」
「……歩きながら食べます」
「お前の歩きながらは――」
「……今日は、こぼさない」
エリオットが何か言いかけて、やめた。深く息を吸って、吐いた。
「……昨日も同じことを言っていたな」
「……昨日は石畳の継ぎ目に躓いた。イレギュラーです」
「今日も石畳だ」
反論できなかった。
ルシルは黙って黒パンを懐にしまい直し、エリオットの背中についていった。
***
聖ベルナール礼拝堂は、王都の中央広場に面した古い石造りの建物だった。
正面扉の前に、王都警察の騎士が二人立っていた。
ルシルたちを見て、片方が眉をひそめた。
「異端審問局の方ですか。失礼ですが、こちらは現在――」
「記録官と護衛だ」とエリオットが静かに言った。「通してもらう」
「しかし、捜査の関係上――」
「記録官の現場立ち入りは、審問局規定の第七条により認められている」
「わかりました、どうぞ」
王都警察の騎士が、素早く道を開けた。
エリオットの声には、怒鳴らないのに相手が引く何かがある。
ルシルは毎回それを観察しているが、まだ数値化できていない。
(……声の低さと、体躯の組み合わせかしら。きっと計算式があるはず)
礼拝堂の中に入った。
高い天井。色硝子から差し込む光。
長椅子が左右に並ぶ通路の先に、祭壇がある。
そしてその手前の床に――白い経帷子を羽織った、初老の男性が倒れていた。
ルシルは真鍮のメジャーを取り出した。
チャキ、チャキ。
「ちょっと待て」
王都警察の騎士の一人が、前に出てきた。
三十代半ば、鎧の上から見ても肩幅が広い。いかにも「現場のベテラン」という顔をしていた。
「なんだ、この小娘は。記録官と言ったが、検死の心得でもあるのか。素人が遺体に触れるのは――」
「……触れない」
ルシルは騎士を一瞥した。
「触れなくても、測れますの」
騎士が何か言いかけた。エリオットが静かに一歩前に出た。
それだけで、騎士は口を閉じた。
ルシルは遺体のそばにしゃがみ込み、まず全体を観察した。
死斑の位置。硬直の進行具合。顔色の状態。
(……死後、十時間から十二時間。昨夜の深夜に死亡した計算ですの)
次に扉を見た。分厚い木製の扉。
内側に、大きな鉄製の閂がある。閂は今も、しっかりと差し込まれた状態だ。
(密室、ですわ)
ルシルは扉に近づき、鍵穴を覗いた。
標準的な鍵穴だ。縦に細長い。鍵を差し込む部分と、回転させる部分。
(……ここ)
鍵穴の内側の縁に、ごく細い擦り傷があった。金属が金属を擦った痕だ。
鍵を差し込んだだけでは、この角度にはつかない。
ルシルはメジャーで擦り傷の長さと角度を計測した。
それからドレスの袖にガラスペンを走らせる。
「……エリオット、針金を探してください。細いもの。厨房か、修繕道具の中にあるはずですわ」
ルシルは無表情のまま、鍵穴に視線を戻した。
「……針金を、探してください」
「……承りました。お嬢様」
エリオットが、かすかに笑った気配がした。
***
エリオットが厨房から戻ってきた。手に、細い針金が一本。
ルシルは受け取り、鍵穴の擦り傷と照合した。
「……太さが一致する」
針金を鍵穴に差し込み、内側の閂の位置を確認する。
閂の構造を頭の中で展開する。
(……できますわ。鍵穴から針金を入れて、先端を鉤状に曲げれば――閂を操作できる)
「わかりました」
ルシルは立ち上がった。
振り返ると、王都警察のベテラン騎士が腕を組んでこちらを見ていた。
「わかったと言ったが――まさかこの短時間で密室の謎が解けたなどとは言わないだろうな」
「……言います」
騎士の眉が、ぴくりと動いた。
「この鍵穴の内側に、針金で擦った痕がある。犯人は格子の隙間から細い針金を通し、鍵穴に差し込んで外から閂を操作した。扉は内側から施錠されているように見えるが――外から閉めることができた」
「そんな器用な真似が――」
「針金の先端の曲がり癖が、残っている。この曲がり方は、右利きで、指が細く、精密な手仕事に慣れた人間の癖です。礼拝堂でそういう手仕事をする職業といえば――」
「刺繍係だ」とエリオットが静かに言った。「祭服の刺繍を担当している者がいるはずだ」
「……確認してください」
エリオットが動いた。
ベテラン騎士が、ルシルを見ていた。
認めたくない、しかし反論もできない、という顔だ。
ルシルはその顔の分類を、ドレスの袖に小さく書き込んだ。
(あの顔は……。プライドと事実の間で詰まっている顔。以前の弟貴族と同じ種類ですの)
「……失礼だが」と騎士が口を開いた。「遺体を見ながら袖に何を書いているんだ」
「……メモ」
「服に?」
「……羊皮紙より早いので」
騎士が何か言おうとした瞬間、エリオットが戻ってきた。
「刺繍係がいた。三十代の女性。話を聞いたら、顔色が変わった」
「……連れてきてください」




