第5話 母の声と、測れない距離
異端審問局の記録室に、月に一度だけ、封筒が届く。
表には何も書かれていない。裏に、蝋の封印だけ。
差出人の名前も、部署名もない。
ルシルはそれを受け取り、中を確認した。
金貨が、数枚。
通常の記録官の月給より、明らかに多い額だ。
異端審問局の「裏仕事」――権力者に都合の悪い死体を、それでも正確に記録し続ける対価として、局の一部から密かに支払われる報酬だった。
(……毎月届く。差出人は、いつも同じ蝋印だけ)
ルシルは封筒の蝋印をもう一度見た。紋章はない。
しかし蝋の色が、いつも同じだ。深い臙脂色。
市販品ではない、特注の色だ。
(……誰が、送っているのかしら)
答えは出なかった。確信のないことは、口にしない。
しかし点として、頭の隅に留めた。封筒ごと、修道服の内側に仕舞った。
「また全部送るのか」
背後からエリオットの声がした。
いつの間に入ってきたのか、気配もなかった。
「……そうする予定」
「自分の分は残せ」
「……足りています」
「足りてない。先月お前が食堂に来た回数、数えてみろ」
ルシルは答えなかった。答えると負ける気がした。
エリオットが椅子を引いて腰を下ろした。
今日は黒パンではなく、干し肉を持ってきていた。机の上に置く。
ルシルは受け取り、一口かじった。
(……悪くないですわ)
「一つ聞いていいか」
エリオットが、珍しく少し間を置いてから言った。
「母親に、会いに行かないのか」
ルシルの手が、止まった。
干し肉を持ったまま、机の木目を見つめる。
封筒が届くたびに、思う。今月こそ行こう、と。
しかし毎月、記録の整理が終わらないとか、仕事が入ったとか、理由を見つけて先延ばしにしてきた。
本当の理由は――会いに行くたびに、お母様が少し細くなっているから。
それを測りたくないからだ。
測れば、数字になる。数字になれば、事実になる。
(……でも)
「……今日、行く」
自分でも、答える前から決まっていた気がした。
エリオットが小さく頷いた。
「送っていく」
「……一人で行ける」
「どうせ迷う」
「……迷わない」
「王都南区と北区の区別がついてから言え」
反論できなかった。
***
施設までの道は、ルシルには判別のつかない石畳が続く。
エリオットの背中を視界ের正面に固定して歩くのが、ルシルの確立した移動手段だ。
しかし今日は施設への道だ。いつもと違う。
「……エリオット」
「ん」
「……今日の道は、いつもと違いますか」
「違う。南区は初めてだろ」
「……では、今日の道を覚えます」
「覚えなくていい。また送る」
「……毎月は申し訳ない」
「毎月来い、ということだ」
ルシルは少し考えた。
「……それは、来月も送ってくれるということですか」
「そうだ」
「……再来月も」
「そうだ」
「……論理的に、これは定期的な業務になると」
「好きに解釈しろ」
エリオットが前を向いたまま言った。
ルシルも前を向いたまま、その答えを頭の中で転がした。
(……変な人ですわ。損得が合わないのに、毎回こういうことを言いますの)
測れない人間だった。測れないことは、判断できない。
だからルシルは何も言わなかった。
施設の入口の前で、ルシルはエリオットを見上げた。
「……ここ、合ってますか」
「合ってる。途中で二回修正したが」
「……二回も」
「南区に来たことがないのだから仕方ない。次は一回で済む」
「……次も修正前提ですか」
「お前のことは把握している」
エリオットが言った。それだけだった。
「俺は外で待っている。ゆっくりしてこい」
ルシルは頷き、扉を開けた。
***
廊下を進み、一番奥の部屋の前で立ち止まった。
ノックをする前に、少しだけ間があった。
(……お母様)
胸元のブローチに触れた。アンティークの鳥の形をした、父の形見だ。
指先でそっと触れて、ノックした。
「……どうぞ」
扉を開けると、白いカーテンが風に揺れていた。
窓際のベッドに、女性が横たわっていた。
エレーヌ。
かつて社交界で「子爵夫人の微笑みを見れば、その日は良い日になる」と言われた婦人。
今は頬がこけ、髪に白いものが混じっているが――。
ルシルの顔を見た瞬間、その目が変わった。
「ルシル」
名前を呼ばれた瞬間、ルシルの中で何かがほどけた。
「……お母様」
歩み寄り、ベッドの傍の椅子に腰を下ろした。
母の手を、両手で包む。細い。前より細くなっている。
ルシルはその細さを、測らなかった。測りたくなかった。
「……会いたかったわ」
母の手のひらが、冷たかった。それでも、温かかった。
論理的に矛盾していることはわかっていた。でも、そうとしか言えなかった。
「……私も、参りたかったですわ」
母が微笑んだ。
「顔色が悪いわ」と母が言った。「また食べていないでしょう」
「……食べております」
「嘘をつくのが上手くなったわね」
「……上手くありません。エリオットにも毎回見破られてます」
「エリオット?」
母の目が、わずかに細くなった。興味を持つときの顔だ。
「……異端審問局の騎士です。一緒に仕事をしております」
「騎士さんが、あなたの嘘を見破るの」
「……私の顔が、完全に無表情になるときに嘘をついていると知っておりますの」
「まあ」
母が笑った。久しぶりに聞く笑い声だった。
「賢い方ね」
「……そう思います」
ルシルは答えてから、少し驚いた。
そう思います、と口に出したのは初めてだった。
「その服、似合わないわ」と母が言った。
「……機能的です」
「ドレスがインクだらけじゃない」
「……仕事のメモを書いておりますの」
「服に?」
「……羊皮紙より早いので」
母がまた笑った。
ルシルは笑わなかったが、口元が少しだけほぐれた。
母が今度はルシルの髪に手を伸ばし、乱れた毛先をそっと整え始めた。
(……お母様は、病弱なのに)
「じっとしていなさい」と母が言った。
「……お体に障ります」
「あなたの顔を見ているだけで、元気が出るのよ」
喉の奥で何かが詰まった。
感情が動きそうになる。いつもならメジャーに逃げる。
でも今は――取り出す気になれなかった。
「あなたがここにいてくれると、この部屋が明るくなる気がするのよ。不思議でしょう、あなたはいつも無表情なのに」
「……」
「でも、わかるの。あなたがここにいてくれると、お母様は安心するわ」
(……測れないことが、またひとつ増えました)
「……私も」
小さな声だった。
「……お母様がここにいると、わかっていると。それだけで、頑張れます」
母の目が、嬉しさで細くなった。
「お父様のこと」
母が、静かに言った。
「あの人は、正しかったと思っているわ。今でも。記録を正確に残すことにこだわった人だった。どれだけ上から圧力をかけられても、患者の記録だけは絶対に曲げなかった。あなた、そっくりよ」
「……私は、まだ確信が持てておりません」
正直に言った。お母様の前では、なぜか正直になれた。
「確信がなくても、信じることはできるわ」
ルシルはしばらく、その言葉を頭の中で転がした。
(信じること、と、確信すること、は――別のことですわ)
計測できない話だった。でも、否定もできなかった。
帰り際、母がルシルの手を引き留めた。
胸元のブローチにそっと触れた。
「……お父様の形見、持っていてくれたのね」
言葉が、出なかった。
「……はい」
それだけ、言えた。
母がルシルの手を、両手で包んだ。一度だけ、強く。
「また来てね。お母様、待っているから」
扉を閉める直前、母の声が聞こえた。
「……愛しているわよ、ルシル」
一秒だけ、止まった。振り返らなかった。でも――。
「……私も、ですわ」
それだけ言って、廊下に出た。
***
施設の外に出ると、エリオットが石壁にもたれて待っていた。
隣に、小さな女の子がいた。
施設に併設された修道院の子どもらしい。六歳か七歳か。
エリオットの騎士服の裾をつかんで、何か話しかけていた。
エリオットは困った顔で、しかし邪険にもせず、子どもの目線に合わせてしゃがみ込んでいた。
ルシルの足音に気づいて、顔を上げる。
子どもが「おねえちゃんだ」と言って、パタパタとルシルの方へ駆けてきた。
ルシルは少し固まった。
子どもの扱い方が、わからなかった。
(……計測するには小さすぎます。あと動きが不規則すぎて、軌道が読めない)
子どもがルシルの修道服の袖をつかんだ。
「おねえちゃんだ。おねえちゃんの服、もじもじしてる」
「……インクですわ」
「なんで服にいんく?」
「……メモを書いておりますの」
「ふうん」
子どもは三秒で興味を失い、またエリオットの方へ駆けていった。
エリオットが立ち上がり、子どもの頭をひとなでして、ルシルの隣に並んだ。
「終わったか」
「……はい」
並んで歩き始めた。王都の夕暮れが、石畳を橙色に染めていた。
しばらく歩いてから、エリオットが口を開いた。
「……いい母親だな」
ルシルは答えなかった。
でも――頬が、かすかに熱くなった。
(……なぜ褒められているのかわからないわ。お母様はお母様なのに)
熱は引かなかった。
ルシルは前を向いたまま、修道服の袖を少しだけ顔に近づけた。冷たい生地が、頬に触れた。
エリオットが横目で見た気配がした。何も言わなかった。
そのまま歩き続けた。
***
記録室に戻ると、机の上に黒パンが置いてあった。
帰り道、施設を出て最初の角を曲がったとき――エリオットが一瞬だけ先を歩いた。
あのときだ。
椅子に座り、黒パンを手に取った。自分から。
一口かじりながら、窓の外の暗い空を見た。
(……確信がなくても、信じることはできる)
お母様の言葉が、まだ頭の中にあった。
ルシルは胸元のブローチに、そっと触れた。
それから修道服の内側の封筒に触れた。
深い臙脂色の蝋印。差出人不明の、毎月届く封筒。
(……いつか、これも測り直さないと)
メジャーを指に巻き付けた。チャキ、と冷たい音が鳴る。
ランプを吹き消した。
暗闇の中で、黒パンの残りを最後まで食べた。
今日は、全部食べた。




