第4話 父の薬箱と、甘い毒の記録(後編)
帰り道、ルシルはエリオットの隣を歩きながら、ずっと黙っていた。
エリオットも何も言わなかった。
王都の夕暮れが、石畳を橙色に染めていた。
ルシルは足元を見ながら歩いた。
(……蜜草)
父の書斎の匂い。棚の奥の、特別な引き出し。
触れてはいけないと言われた薬草。
父は、その知識を持っていた。
没落の直前に、父の薬箱だけが屋敷から消えていた。当時は混乱していて、気にしなかった。でも今なら――。
(……誰かが、持ち出した?)
父が自分で持ち出したのか。それとも誰かが奪っていったのか。
点と点が、まだ線にならない。しかし点の数が、確実に増えていた。
「ルシル」
エリオットが呼んだ。
「……ん」
「今日は、顔が違う」
「……私の顔は、いつも同じ」
「そうでもない」
エリオットはそれ以上言わなかった。ルシルも答えなかった。
ただ、並んで歩き続けた。
しばらくして、ルシルはふと、今日の遺体の踵の引きずり痕を思い出した。
あの角度から逆算した、犯人の腕の長さ。書類を運んでいた薬師の体格と一致するか、まだ確認が取れていない。
(……確認するべきですわ。比較対象として、標準的な成人男性の腕の寸法があれば――)
ルシルは無言でメジャーを取り出した。
「……」
エリオットが横目で見た。
「何してる」
「……比較対象が必要になりました」
「何の」
「……成人男性の平均的な腕の長さ。今日の事件の引きずり痕の角度から犯人の体格を逆算したいけど、手元に参照値がありません」
エリオットが三秒ほど黙った。
「……俺の腕でいいのか」
「……エリオットの体格は把握済みですが、今日の薬師と比較するための基準値として改めて正確に計測したい」
「把握済みって」
「……以前、必要があって計測した」
「いつ」
「……あなたが道に迷ったとき」
エリオットが何か言いかけて、やめた。
それから、無言で右腕をルシルの方へ少し差し出した。諦めた顔だった。
ルシルはメジャーを当てた。上腕の長さ、前腕の長さ、手首の幅。
素早く計測し、ドレスの袖に数字を書き込む。
(……やはり、今日の薬師より腕が長い。エリオットが遺体を引きずったとすれば、踵の擦れ痕の角度はもう十五度ほど――)
「終わったか」
「……終わりました。感謝します」
「どういたしまして」
エリオットの声は、呆れていた。しかし怒っていなかった。
ルシルはメジャーを仕舞い、また前を向いて歩き始めた。
(……エリオットは、本当に変な人。二度も腕を測られて怒らない人間が、この世にいるとは思いませんでした。一度目は百歩譲るとして、二度目は普通、断りますわよね)
それは口にしなかった。
口にすると三度目も測れなくなる可能性があったので。
***
記録室に戻ると、机の上に黒パンが置いてあった。
エリオットがいつ置いたのか、わからなかった。
帰り道でメジャーを出している間に先に戻っていたのか、それとも最初からここにあったのか。
ルシルは椅子に座り、黒パンを手に取った。
エリオットが差し出す前に、自分から。
一口かじった。固い。顎が痛い。
(……お父様は、どんな気持ちで薬箱を持っていたのかしら?)
侍医として、人を治すために持っていた知識。
蜜草の扱い方も、その知識の一つだったはずだ。
それが誰かに悪用されたとしたら。あるいは――。
(わかりませんわ。まだ)
確信のないことは、口にしない。記録がないことは、判断しない。
でも父のことだけは、どうしても数字で測れなかった。
もう一口かじったところで、扉がノックされた。
「入っていいか?」
エリオットだった。扉越しに聞いてくる。珍しい。いつもは確認なしに入ってくる。
「……どうぞ」
扉が開いた。エリオットが入ってきた。
手に、小さな包みを持っていた。布に包まれた、平たい何かだ。
「食堂でもらってきた。今日は芋が余ったらしい」
机の上に、包みを置いた。ルシルは黒パンを持ったまま、包みを見た。
「……黒パンがある」
「両方食え。芋は温かいうちに食べろ」
「……食べすぎになる」
「お前の食べすぎは他人の普通だ」
反論できなかった。
ルシルは黒パンを置き、包みを開けた。蒸した芋が、湯気を立てていた。
一口食べた。
(……温かい)
それだけだった。
しかしその温かさが、今日一日の終わりに、妙に染みた。
エリオットは向かいに座り、自分の黒パンをちぎり始めた。
帰り道に食べなかったのか、とルシルは思ったが言わなかった。
しばらく、二人で黙って食べた。
記録室には羊皮紙の匂いと、ランプの油が燃える微かな音だけが満ちていた。
「……エリオット」
ルシルが口を開いた。珍しく、自分から。
「……ん」
エリオットが答えた。ルシルの言い方を、そのまま返してきた。
「……父の薬箱が、没落の直前に消えていた」
エリオットの手が、止まった。
しかし何も言わなかった。続きを待っていた。
「……誰が持ち出したのか、わからない。父が自分で持ち出したのか、それとも――誰かが奪ったのか。まだ確信がない。だから、口にするべきではないと思っていました」
「……でも、言った」
「……言いました」
なぜ言ったのか、ルシルには正確にはわからなかった。
確信がないのに口にするのは、自分の流儀に反する。なのに――。
「……今日の遺体の傍にいて、少し、整理したくなりましたの」
エリオットはしばらくルシルを見ていた。
それから、黒パンをひとかじりして、ゆっくりと言った。
「覚えておく」
「……それだけですか」
「それだけだ。確信が持てたら、また話せ」
ルシルは少しの間、エリオットを見た。
(……変な人。聞いておいて、何も聞き返さない)
でも不思議と、それで十分だった。
芋の残りを食べた。黒パンも、半分食べた。今日はそれで十分だった。
エリオットが立ち上がり、「おやすみ」とだけ言って扉を出た。
ルシルはランプの光の中で、しばらくそのまま座っていた。
それから修道服の内側から、十五年前の判決記録をそっと取り出した。
(……お父様)
感情は、動かさなかった。動かしすぎると、確信と混同する。
ただ、メジャーを指に巻き付けた。チャキ、と冷たい音が鳴る。
(いつか必ず、測り直します)
ランプを吹き消した。
机の上に、食べかけの黒パンが半分、残っていた。
(……明日、エリオットに怒られるかしら)
少し考えてから、暗闇の中で残りを全部食べた。
今日は、そういう気分だった。




