第4話 父の薬箱と、甘い毒の記録(前編)
記録室の朝は、いつも羊皮紙の匂いから始まる。
ルシルは棚から今週分の検死記録を引き出し、順番に確認していた。
記録の書式、署名の位置、日付の整合性。一枚一枚、丁寧に目を通す。
表向きは、通常の記録整理だ。
しかし指が無意識に、棚の奥の特定の場所へ向かいそうになるのを、ルシルは毎朝こうして抑えている。
書記長室の羊皮紙と同じ質感を持つ、十五年前の判決記録。
まだ分析しきれていない。確信が持てていない。
(確信のないことは、口にしてはいけない)
自分に言い聞かせながら、記録を一枚めくった。
「ルシル」
エリオットが扉を開けて入ってきた。
今日は黒パンではなく、薄い肉のスープを木椀に入れて持ってきた。珍しい。
「食堂で余ったやつだ。捨てるのももったいないから持ってきた」
「……感謝します」
ルシルはスープを受け取り、一口飲んだ。温かかった。
(……悪くないですわ)
エリオットが向かいに腰を下ろした。今日はすぐに仕事の話をしない。
「一つ聞いていいか」
「……ん」
「お前の父親は、侍医だったんだろう」
ルシルの手が、一瞬だけ止まった。
木椀を持ったまま、羊皮紙を見つめる。表情は動かない。しかし指先が、わずかに白くなった。
「……そう、記録されています」
「記録されている、か」
エリオットは繰り返した。それ以上は聞かなかった。
沈黙が落ちた。ルシルはスープの続きを飲み、エリオットは窓の外を見ていた。
(……なぜ今、聞きましたの)
理由を測れなかった。測れないことは、判断できない。
だからルシルは何も言わなかった。
「仕事だ」と、エリオットがようやく口を開いた。
「王都西区の商人の屋敷で、若い夫人が急死した。死因は衰弱死として処理するよう、上からお達しが来ている」
「……衰弱死として」
「夫が有力者と繋がりがあるらしい。誰も異議を唱えていない」
「……処理する」
「そういうことだ」
「……処理、しない」
エリオットが、少し間を置いた。それから、静かに立ち上がった。
「だと思った。行くぞ」
***
王都西区までの道は、ルシルには判別がつかない石畳が続く。
エリオットの背中を視界の正面に固定して歩くのが、今のルシルの移動手段だ。
背中を見ていれば迷わない。これは二週間かけて検証した結果、導き出した最適解だった。
五分ほど歩いたところで、エリオットが立ち止まった。
「……ルシル」
「……ん」
「なぜ俺の背中を見ながら歩いている」
「……道に迷わないため」
「それは合理的だが」
「……ん」
「俺は今、お前の隣を歩いている」
ルシルは前を向いた。
石畳が、まっすぐ続いていた。エリオットは、右隣にいた。
(……背中がなくなっていましたわ)
「……いつから」
「角を曲がったあたりからずっと隣にいた」
「……」
「お前はずっと前の石畳に向かって歩いていた」
「……方向は合っていた」
「それだけは認める」
エリオットが何か言いかけて、やめた。
溜め息を一つついて、歩き始めた。
ルシルは今度こそエリオットの背中を正確に視界の正面に捉え、ついていった。
(……背中は、隣にいるときは機能しないのね。要改善です)
***
商人の屋敷は、王都西区の中でも一際大きな建物だった。
玄関で出迎えた夫は、四十がらみの恰幅の良い男だった。
悲しんでいる様子はない。困っている様子もない。
ただ、早く終わらせたいという空気だけが、その顔に張り付いていた。
「妻は長らく体が弱く、先生方にも匙を投げられておりまして。今回もその……心の病が、とうとう体に出てしまったということで」
「……部屋に案内して下さい」
夫の説明を遮り、ルシルは言った。
夫が眉をひそめたが、エリオットが静かに一歩前に出た。
それだけで、夫は口を閉じた。
案内された寝室は、清潔に整えられていた。
白いシーツ、整えられた枕。まるで眠っているように横たわる、二十代半ばほどの女性。
(……綺麗に、片付けられていますわ)
死後、誰かが丁寧に整えた痕跡がある。それ自体はおかしくない。
しかしこれほど完璧に整えられていると、現場の情報が失われる。
ルシルはしゃがみ込み、遺体の観察を始めた。
チャキ、チャキ。
メジャーを指に巻き付けながら、顔色を確認する。皮膚の状態。硬直の進行具合。
(……爪の色が、おかしい)
爪の根元に、わずかな青みがある。均一な変色だ。
単純な衰弱死では、ここまで均一には出ない。さらに唇の端に、かすかな変色の痕。
ルシルはメジャーで爪の変色範囲を計測し、ドレスの袖に数字を書き込んだ。
(これは蓄積した何かの結果わ。一度に大量ではなく、少しずつ、長い時間をかけて体に溜まったもの)
次に、遺体の口元に顔を近づけた。
エリオットが背後で小さく息をのんだ気配がした。ルシルは気にせず、鼻を近づける。
(……)
甘い。かすかに、甘い匂いがした。
(この匂い――)
記憶が動いた。
幼い頃の、父の書斎の匂い。
薬草と羊皮紙と、インクの匂いに混じって、ときどきこの甘さが漂っていた。
父が薬箱を開けるとき。棚の奥の、特別な引き出しを開けるとき。
父はその引き出しを、ルシルには絶対に触れさせなかった。
(……蜜草ですわ)
ルシルは立ち上がり、ドレスの胸元にガラスペンを走らせた。
蜜草。少量なら鎮静剤として使われる薬草だ。心を落ち着かせる、穏やかな薬。
しかし長期間、少量ずつ投与し続けると――心臓に蓄積する。
ゆっくりと、気づかれないように、心臓を弱らせていく。最終的には衰弱死に見える症状を引き起こす。
侍医の知識がなければ、毒とは気づかない。
「……エリオット、この屋敷に専属の薬師はいますか」
「確認する」
エリオットが部屋を出た。ルシルは計測を続けた。
皮膚の変色パターン。爪の状態。まぶたの裏の色。すべてを数値化していく。
変色のパターンから、蓄積期間を逆算する。
(少なくとも、三ヶ月以上ですわ。おそらく半年近く)
三ヶ月。毎日、少しずつ。
「薬師がいる」と、エリオットが戻ってきた。
「三年前から夫に雇われている男だ」
「……三年前から」
(これは衝動的な犯罪ではありませんわ。計画的で、辛抱強い。指示と薬草の知識を持つ人間の仕業ですの)
書類が届くまでの間、ルシルは遺体の傍に座っていた。
何かをするわけではない。ただ、そこにいた。
(三ヶ月、毎日飲まされていたということは――この方は毎日、夫から薬を渡されていたということですわ)
信頼していたのかもしれない。
「体が弱いから」と言われて。「あなたのためだから」と言われて。
甘い味のする薬を、毎日飲んでいたのかもしれない。
(……見苦しい話)
怒りに近い何かが動いた。
ルシルはメジャーを指に巻き付けた。チャキ、チャキ。
冷たい金属の感触が、思考を引き戻す。
(感情は、証拠になりません。記録が、証拠になる)
エリオットが書類の束を抱えて戻ってきた。
「夫は渋ったが、異端審問局の記録官の要請だと言ったら出してきた」
ルシルは書類を受け取り、購買記録を広げた。
食材、布地、燃料、薬品。一列ずつ、指でなぞる。
(……ここ)
薬品の欄に、定期的な購入記録がある。
品名は「滋養薬草、調合品」とだけ書かれていた。しかし量が、おかしい。
治療目的なら、これほどの量は必要ない。
購入頻度が、夫人の「体調が悪化し始めた」とされる時期と完全に一致している。
そして購入先が――市場の薬屋ではなく、屋敷の専属薬師からの直接調合だった。
(記録は、正直です)
ルシルは立ち上がった。
「……夫を呼んで下さい」
***
応接室で夫は待っていた。
ルシルが購買記録を机に広げると、男の顔色が変わった。
「……この薬草の購入量と頻度は、治療目的と合わない」
「そ、それは妻の体が弱くて、量が必要で――」
「蜜草の長期投与は、心臓を弱らせる」
男が黙った。
「侍医の知識がない人間には、わからない毒です」
ルシルはメジャーをチャキ、と一度鳴らした。
「死因は衰弱死に見える。現場は丁寧に整えられていた直。完璧な計画だったと思いますの」
一歩、近づく。
「でも記録が、残っていた。薬草の量が、語っていた。そしてこの方の爪が――三ヶ月以上の蓄積を、正確に記録していた」
もう一歩。
生気のない金色の瞳が、逃げ場を塞ぐように男を射抜く。
「死体は、嘘をつきません。あなたがどれだけ整えても、数字は消えない」
男の口が、かすかに震えた。
「……再婚、するつもりだったんですか」
男は答えなかった。答えなくても、わかった。
ルシルはしばらく男を見た。
怒りでも、軽蔑でも、そのどちらでもない眼差しで。
「……下劣ですわ」
それだけ言って、背を向けた。




