第3話 奇跡の寸法(後編)
まず輪郭の線の太さを測る。染みの上端から下端までの長さ。左右の幅。
顔の各パーツの位置関係を数値化していく。
(……左右対称ですわ。自然に染みが広がった場合、ここまで対称にはならない。水分は石の密度の差に従って不規則に浸透するはずですから)
次に染みの輪郭を子細に観察した。
端の処理が、内側から外側へ向かって薄くなっている。
(これは、筆で描いた場合の顔料の広がり方と一致しています)
ルシルは壁に顔を近づけ、染みの表面を指先でそっと触れた。
石の表面より、わずかに滑らかだ。
(顔料が石の表面を均一にコーティングしていますわ。つまり――)
懐からガラスペンを取り出し、修道服の袖に数字と走り書きを刻んでいく。
左右対称率、輪郭線の太さの均一性、顔料の浸透深度の推定値。
それから、もう一度だけ壁全体を見上げた。
(……上手な絵。描いた人間は、信者が何を見たいかを正確に知っていた。それだけは、認めますの)
「……これは絵です」
ルシルは立ち上がり、振り返った。
周囲の信者たちが、一斉にルシルを見た。
「かなり上手な絵ですが、絵です。奇跡ではない」
静寂。
それから、どよめきが広がった。
「なんだと!」「不敬だぞ!」「この修道女は何者だ!」
怒号が飛んでくる。
ルシルはそれを無表情のまま受け止めながら、計測の続きをしようとした。
その瞬間、一人の大柄な信者が前に出てきた。
「お前、聖女様を侮辱するのか――」
「彼女は異端審問局の公式記録官だ」
エリオットの声が、静かに群衆を割った。
一歩前に出た騎士の体躯が、信者と壁の間に立ちはだかる。
抜剣はしていない。それでも、その立ち方だけで十分だった。
「記録官の調査を妨害することは、異端審問局への妨害と見なされる。続けたい者は、名前を聞かせてもらう」
群衆が、静まった。
ルシルはエリオットの背後で、計測の続きをした。
(……エリオットは人混みの突破にも群衆の制圧にも使える。有能ですの)
それは絶対に口にしなかった。
***
修道院の一室を借りて、ルシルは調査記録を書き始めた。
使用された顔料の種類の推定。筆跡の特徴から推測される制作者の利き手と熟練度。制作にかかったおおよその時間。
壁画が描かれた時期の推定――雨が降った痕跡と顔料の乾燥具合から、三日から五日前と判断できる。
(誰が描いたかはわからない。でも、何が起きたかは記録できる)
「ルシル」
エリオットが向かいに腰を下ろした。
仕事中に話しかけてくるのは、珍しいことだった。
「一つ聞いていいか」
ルシルは記録書から目を離さず、「……ん」と答えた。
「なぜそこまでやる」
「……計測を?」
「記録を、正確にすることを」
エリオットの声は静かだった。
「正確な記録を残したところで、上が書き換えれば同じだろう。お前もわかってるはずだ。今回の奇跡認定も、最終的には上の都合で記録が上書きされる」
ルシルの手が、止まった。
ガラスペンを持ったまま、羊皮紙を見つめた。
(……なぜ)
考えたことがなかった。いや、考えないようにしていた。
考え始めると、続けられなくなる気がしたから。
エリオットの言う通りだ。
ルシルが正確な記録を残しても、上層部が書き換える。書記長室が握りつぶす。
真実は公式の記録からは消える。
(では、なぜ)
答えが出なかった。
感情が動きそうになる。感情が動きそうになると、いつもは計測に逃げる。数字を測る。寸法を確認する。
でも今は――測るべきものが、ない。
沈黙が長くなった。
エリオットは待っていた。急かさなかった。
ルシルはゆっくりと、ガラスペンを置いた。
「……死者は、書き換えられない」
エリオットが、静かに目を上げた。
「骨は、嘘をつかない。どれだけ記録を書き換えても、死体に刻まれた事実に代わりはない。私が正確に測って記録することは――」
言葉が続かなかった。うまく言語化できない。
(……私がここにいる理由が、消えないようにするため)
でも、それは口にできなかった。
自分でも、まだ整理できていないからだ。
「……わからない。でも、やめられません」
エリオットはしばらくルシルを見ていた。
それから、小さく頷いた。
「そうか」
それだけだった。追及しなかった。
ルシルはガラスペンを再び手に取り、記録の続きを書き始めた。
(……エリオットは、変な人です)
聞いておいて、答えに満足しない様子もなく、ただ「そうか」と言う。
騎士というのは皆こういうものなのか、それともこの人だけがこうなのか、ルシルには判断できなかった。
(……測れないことは、判断できない)
***
調査記録を書き終え、ルシルは異端審問局に戻った。
上級記録官の執務室に報告書を提出しようとして――扉の前で、足が止まった。
扉の隙間から、羊皮紙を受け取る上級記録官の手が見えた。
差し出しているのは、見知らぬ使いの者だ。
ルシルは音を立てずに壁に背をつけ、目だけで状況を確認した。
使いの者が去り、上級記録官が手元の羊皮紙に目を通す。
それを引き出しに仕舞い、代わりに別の羊皮紙を取り出して、公式記録の棚に差し込んだ。
扉が閉まった。
ルシルはしばらくその場に立っていた。
それから、自分の報告書を手元に引き戻した。
(……もう、記録が作られましたわ。私が提出する前に)
公式の棚に差し込まれた羊皮紙の背表紙が、扉の隙間からかろうじて見えた。
タイトルが読めた。
『王都北区修道院・聖女顕現の奇跡、認定記録』
ルシルは自分の報告書――人為的な偽造と記した正確な記録――を、静かに修道服の内側に仕舞った。
それから執務室の扉をノックし、中に入った。
「……報告書を提出しに来た」
上級記録官が顔を上げた。
「ああ、ルシル記録官。ご苦労だった。例の件は、すでに上から正式な認定が下りている。君の調査記録は――」
「……必要ない、ということですか」
「そういうことだ。今回はご苦労だったね」
ルシルは一礼し、執務室を出た。
廊下を歩きながら、修道服の内側の報告書の重みを確かめた。
(……羊皮紙の質)
さっき公式棚に差し込まれた記録書の背表紙。一瞬しか見えなかったが――あの羊皮紙の色と厚みが、先日の事件で震える手の会計係から受け取った内線記録票と、同じだった。
市販品ではない。特注の質感だ。
(書記長室でしか、使われていない羊皮紙)
ルシルは足を止めた。
廊下の突き当たりに、一つの扉があった。
『書記長室』と、プレートが掲げられている。
ルシルはその扉を、しばらく見つめた。
感情は動かなかった。動かさなかった。
ただ、指先のメジャーをチャキ、と一度だけ鳴らした。
***
夜、記録室に戻ったルシルは、机の上に三枚の羊皮紙を並べた。
今日の正確な調査報告書。
会計係から受け取った書記長室の内線記録票。
そして古い記録棚から抜き出した、十五年前の自分の家の判決記録。
三枚を並べ、ランプの光にかざす。
羊皮紙の質が、同じだった。
インクの配合が、同じだった。
書き換えの癖が、同じだった。
(……十五年前から、ずっと同じ人間が記録を書き換えてきた)
感情が動きそうになった。
今回は、計測に逃げなかった。
逃げる代わりに、ガラスペンを取り出し、自分のドレスの裾に、小さく書き込んだ。
数式ではなく、言葉を。
――死者は、書き換えられない。
ランプを吹き消した。
机の上に、エリオットの黒パンが置いてあった。
いつの間に入ってきたのか、気づかなかった。
(……あの人は本当に、変)
食べた。
暗い記録室で、一人で、固いパンを黙々とかじった。
今日は、味がした。




