第3話 奇跡の寸法(前編)
記録室の夜は静かだ。
ランプの油が燃える微かな音と、羊皮紙をめくる音だけが満ちている。
ルシルは机の上に一枚の記録書を広げ、ランプの光にかざしていた。
先日、古い記録棚から密かに抜き出した、十五年前の記録書だ。
本来あるべき場所には戻さず、修道服の内側に仕舞ったままにしている。
(……ここ)
インクの色が、わずかに違う。肉眼ではほぼわからない。
しかしルシルは幼い頃から侍医の父の書斎で育った。
羊皮紙の質、インクの配合、筆圧の癖――。
記録書の「素材」を読むことなら、検死と同じくらい得意だった。
書き換えられた箇所は三つ。
日付、証人の名前、そして――判決の理由。
(元の文章が、透けて見えます)
上書きされた文字の下に、かすかに別の文字の圧痕が残っている。
ルシルはメジャーを取り出し、文字の間隔を測り始めた。元の文字と、上書きされた文字の筆圧の差を確認する。
(元の判決理由は――)
「ルシル」
声がして、ルシルは記録書を素早く別の羊皮紙の下に滑り込ませた。
振り返ると、エリオットが扉の前に立っていた。夜の巡回の帰りらしく、騎士鎧姿だ。
「まだ起きてたのか」
「……記録の整理をしていました」
「その割には何も広げていないな」
ルシルは答えなかった。エリオットも追及しなかった。
代わりに、机の上に黒パンを置いた。
「明日、仕事だ。王都北区の修道院で奇跡が起きたとかで、調査記録を作れとお達しだ」
「……奇跡」
「壁に聖女の姿が浮かんだとかで、信者が殺到している」
「……聖女」
「上は公式認定したいようだが、形式上は調査記録が必要らしい」
「……形式上」
「そうだ」
「……形式上のために、なぜ私が?」
「お前以外に記録官がいないからだ」
「……」
ルシルは黒パンを手に取り、一口かじった。
(形式上の調査。つまり、最初から結論が決まっているということ。しかし――)
「わかった。行く」
「今日はもう寝ろ。明日の朝に出発だ」
「……あと少しだけ記録の整理をする」
「嘘をつくな。顔に書いてある」
ルシルは無表情のまま、エリオットを見た。
「……私の顔には何も書いていない」
「だからわかるんだ。お前が何かを隠しているときは、いつも完全に無表情になる」
沈黙が落ちた。エリオットはそれ以上何も言わなかった。
踵を返し、扉の前で一度だけ振り返った。
「明日、ちゃんと飯を食ってから出発しろ」
扉が閉まった。
ルシルはしばらく扉を見つめてから、羊皮紙の下の記録書をそっと引き出した。
(……エリオットには、まだ言えませんわ)
確信のないことを口にするのは、ルシルの流儀に反する。
メジャーを指に巻き付け、記録書の分析を再開した。
***
翌朝、ルシルは珍しく食堂へ行った。
エリオットに言われたからではない。
そう言い聞かせながら、麦粥を受け取り、テーブルに座った。
固形物があれば頭が動く。頭が動けば計測の精度が上がる。それだけのことだ。
三口食べたところで、向かいにエリオットが座った。
「食堂に来たのか」
「……麦粥を食べに来た」
「それを食堂に来た、と言う」
「……」
ルシルは無言で麦粥の続きを食べた。
エリオットが何か言いたそうな顔をしていたが、結局何も言わなかった。
代わりに自分の分の黒パンをちぎり始めた。
出発の支度を終え、二人で修道院を出た。
王都北区まで、徒歩でおよそ二十分だとエリオットが言った。
ルシルは頷き、エリオットの背中を視界に収めながら歩き始めた。
五分ほど歩いたところで、エリオットが立ち止まった。
「……ルシル」
「……ん」
「なぜ俺の前を歩いている」
「……先導していました」
「お前は北区に行ったことがあるのか」
「……ない」
「なぜ先導できると思った」
「……」
返す言葉がなかった。
エリオットがルシルの肩を掴み、自分の後ろに位置を入れ替えた。
ルシルは修正された位置で、何事もなかったように歩き始めた。
(……方角は、石畳の苔の生え方で判断できると思っておりましたのに。この区画は例外なのかしら)
それは口にしなかった。
***
王都北区の修道院は、古い石造りの建物だった。
正門をくぐると、すでに信者の群れが中庭を埋め尽くしていた。
皆が同じ方向を向いている。修道院の東側の壁だ。
ルシルはエリオットの背中に続いて、人混みに踏み込んだ。
踏み込んだ、はずだった。
三歩で止まった。前が見えない。左右から信者の体が押してくる。
修道服の袖が誰かに踏まれた。人の波が、ルシルの存在を完全に無視して流れていた。
(……人間の密度が、高すぎます。この状況、どう突破するべきか――)
首根っこを掴まれた。
エリオットだった。無言のまま、ルシルを持ち上げるようにして人混みの中を進み始めた。
ルシルの足が、わずかに浮いた。
「……」
「黙ってろ」
「……何も言っていない」
「言いそうだったから先に言った」
人混みが左右に割れるようにして、エリオットが進む。
三十秒もかからず、壁の前に出た。
ルシルは修道服の襟を整えながら、壁を見上げた。
(……移動効率が上がった。人混みの突破にはエリオットが最適ですわ。次回からもこの方法で――)
それは口にしなかった。
口にしたら、次回から断られる可能性があったので。
壁の中央に、人の顔のような染みが広がっていた。
白い石壁に、薄茶色の輪郭。目の位置に見える二つの影、鼻筋のような縦の線、かすかに開いた口元のような曲線。
確かに、人の顔に見える。
(……ああ)
ルシルは思わず足を止めた。
(見える、というのが正確。顔に「見える」染みと、顔が「描かれた」染みは、別物)
ルシルはメジャーを取り出した。
チャキ、チャキ。
「また始まった」とエリオットが小さく呟いた。




