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『異端審問官ルシルの検死記録 ~没落令嬢は真鍮のメジャーで死体の嘘を測る~』  作者: w.t.


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第2話 五センチの嘘と、眠れない死者(後編)

 遺体を検死室へ移送し、ルシルは本格的な計測を始めた。

 経帷子きょうかたびらを丁寧に外し、遺体の各部位を順番に測っていく。


 骨格の特徴を記録する。これが本来の仕事だ。

 ルシルにとって唯一、嘘のない時間。


(……まず年齢)


 骨密度と関節の摩耗から、推定六十代後半から七十代前半。

 レオナルド修道士は六十二歳の記録だから、やや年上だ。


(次に職業的特徴)


 脊椎の変形パターン、肩関節の骨棘こつきょく、大腿骨の発達具合。


(……これは、重いものを長年運び続けた骨格ですわ)


 修道士の骨格ではない。修道院での労働は祈りと書き物が主だ。

 これだけ全身に負荷がかかった骨格は――港湾労働者、あるいは採掘労働者のものだ。


(つまり、この方は)


 生前、肉体労働者だった。

 修道士として生きたことなど、一日もなかったかもしれない人間が――。


 ルシルは計測を続けながら、膝関節に目を止めた。

 メジャーを当てる前に、しばらく見つめた。


 膝蓋骨の下端から脛骨の前面にかけて、骨の表面がわずかに平らに削れている。

 長年、硬い床に膝をついた痕だ。

 そしてその摩耗の形が――不規則ではなかった。


 左右対称で、均一で、毎回同じ幅の台に、同じ角度で膝をついた痕だった。


(……祈祷台の、形と合ってる)


 長年、毎日、同じ姿勢で膝をついて祈り続けた痕。

 肉体労働者の骨格を持ちながら、それでも祈ることをやめなかった人間の膝。


 重いものを運びながら、毎晩膝をついて祈っていたのかもしれない。

 港か、鉱山か、どこかの現場で働きながら、この膝だけは神に向けていた人間が――。


 誰かに殺され、名前を奪われ、修道士の棺に詰め込まれた。


(……どんな方だったんでしょう)


 答えは出なかった。ルシルは計測を続けた。


(では本物のレオナルド修道士は――どこへ)


 ルシルは立ち上がり、エリオットを見た。


「修道院の過去三年分の会計記録を取り寄せてください」


「……会計記録?」


「物資の仕入れ記録と、実際の在庫が合っているか確認したい」


 三十分後、記録が届いた。

 ルシルは数字を一列ずつ指でなぞった。


 小麦粉の仕入れ量。蝋燭の購入数。修繕費の計上額。


(……ここ、ここ、そしてここ)


 三年前から、仕入れ量と実消費量の間に、定期的な誤差がある。

 少額ずつ、気づかれないように。しかし積み上げると、相当な額になる。


(これは帳簿を熟知した人間の仕事ですわ。外部の人間には書けない誤魔化し方。つまり犯人は修道院の内部にいて、かつ会計を担当している)


 ルシルはガラスペンをドレスの袖に走らせ、数字を書き込んだ。


「エリオット、会計係を呼んでください」


「……もう絞れたのか」


「帳簿が、正直に教えてくれましたので」


 エリオットが静かに言った。

「よくやった」


 ルシルは答えなかった。褒められることに、まだ慣れていない。


***


 会計係は四十代の細い男で、ルシルと向き合った瞬間から手が震えていた。


 ルシルは男の手を一瞥した。右手の人差し指と中指に、ペンだこがある。

 しかし左手首に、荷物を持ち運ぶ革紐の痕が残っている。

 帳簿をつけながら、重い荷物も運んでいた男だ。


(……この手の痕、棺の中の遺体と同じ負荷のかかり方ですわ)


 ルシルはメジャーを取り出し、男の左手首に当てた。

 革紐の痕の幅を測る。


 男が怯えて手を引こうとしたが、ルシルは離さなかった。

 数字を確認し、ドレスの袖の数字と見比べる。


(……一致しています)


 検死室で計測した、遺体の喉元の圧迫痕の幅と。


 男の顔から、血の気が引いた。


「……逃げ場は、ありません」


 ルシルはメジャーを仕舞い、男を見た。

 生気のない金色の瞳が、真っ直ぐに射抜く。


「レオナルド修道士は、何を知っていたんですか」


 男の顔が、崩れた。


 話は単純だった。

 男は三年前から修道院の会計を横領していた。レオナルド修道士がそれに気づいた。

 口封じのために殺し、身元不明の浮浪者の遺体をすり替えた。


 本物のレオナルドは王都郊外の川に沈んでいる、と男は震えながら言った。


「でも」と男は続けた。

「私一人ではできなかった。記録書の書き換えを――上から、指示された」


「上から」とエリオットが鋭く聞いた。「誰から」


 男は口を開いた。しかし声が出なかった。

 唇だけが、小さく動いた。


 怖いのだ、とルシルは思った。

 犯罪を告白するより、その名前を口にする方が、ずっと怖いのだ。

 名前を言った後に何が起きるか、この男はすでに知っているのだ。


「……記録書に、書き換えた痕がありますか」とルシルは静かに聞いた。


 男は小さく頷いた。


「その指示は、どこから来ましたか。文書で来ましたか」


 男は再び頷いた。

 そして震える手で、上着の内側から一枚の紙を取り出した。


 内線の記録票だった。修道院から局内への連絡記録。

 差出人の欄には部署名だけが書かれていて、名前はなかった。


 しかし部署名は――書記長室、とあった。


 ルシルはその紙を受け取った。


 ランプの光にかざした。羊皮紙の質を確かめた。インクの色を確かめた。

 それから、しばらくの間、何も言わなかった。


 エリオットが横目でルシルを見た気配がした。

 しかしルシルは紙を見たまま動かなかった。


 頭の中で、今朝棚で見ていた記録書のパターンが、静かに重なっていた。

 書き換えの癖。矛盾の残し方。

 そして今、手の中にある羊皮紙の質感が――。


(……同じですわ)


 ルシルはその紙を、修道服の内側に仕舞った。

 それから、指先のメジャーをチャキ、と一度だけ鳴らした。


***


 夜、記録室に戻ったルシルは、棚から今朝見ていた記録書の束を再び引き出した。


 十三年前。十一年前。九年前。


 死斑の記述の矛盾。体勢の記述の矛盾。身長の記述の矛盾。

 その今日の棺の中の、五センチの嘘。


(……パターンが、同じ)


 記録書の書き換え方が、同じだ。同じ癖がある。

 同じ場所に、同じ種類の矛盾が残っている。


 ルシルは束の一番古いものを引き出した。

 十五年前の記録。


 そこに、見覚えのある家名があった。


 自分の家の名前だった。


(…………)


 感情は動かなかった。動かさなかった。

 ただ、メジャーを指に巻き付けながら、その記録書をランプの光にかざした。


 書き換えられた痕が、あった。


 書記長室から届いた内線記録票と、同じ羊皮紙の質だった。

 同じインクの配合だった。


(――やはり、ありました)


 ルシルはその紙を、棚には戻さなかった。

 修道服の内側に、静かに仕舞った。

 今日の内線記録票と、重ねて。


 ランプを吹き消す前に、ふと机を見た。


 エリオットが置いていった黒パンが、手つかずのまま残っていた。


(……また忘れました)


 今度は食べた。暗い記録室で、一人で、固いパンを黙々とかじった。


 味はしなかった。

 でも、少しだけ、手の震えが止まった。

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