第6話 密室の鍵穴と、臙脂色の蝋印(後編)
刺繍係の女性は、小さな控室で待っていた。
三十代半ば、細い指に針刺しの跡がある。
ルシルが向かいに座ると、女性の手が膝の上で小さく震えた。
ルシルはその手を一瞥した。
右手の人差し指と中指の側面に、針の刺し跡が集中している。
長年、同じ持ち方で刺繍針を使い続けた人間の手だ。指が細く、関節が発達している。
(……鍵穴の針金の曲がり癖と、一致します)
「一つだけお聞きします」
ルシルは女性を見た。生気のない金色の瞳が、真っ直ぐに射抜く。
「司祭は、何を知っていたんですか」
女性の目が、揺れた。
話は単純だった。司祭が三年にわたって礼拝堂の献金を横領していた。女性はその帳簿の誤魔化しに気づき、証拠を突きつけた。しかし司祭は逆に「お前が盗んだと記録する」と脅した。
追い詰められた女性は、針金一本で密室を作り上げた。
「……刺繍の腕が、仇になりましたわね」
女性が、崩れるように泣いた。
ルシルはしばらくその様子を見ていた。
エリオットが静かに女性の傍に膝をついて、低い声で何か言った。ルシルには聞こえなかった。しかし女性の肩が、少しだけ落ち着いた。
(……エリオットはああいうことが、なぜできますの)
測れなかった。測れないことは、判断できない。
ルシルは立ち上がり、検死記録の最後の一行を書き込んだ。
***
礼拝堂を出たところで、エリオットが言った。
「報告書を上に提出する必要がある。今日は書記長室へ直接持っていくよう、朝に指示が来ていた」
「……書記長室」
「ああ。クレマン書記長が、新しく着任した記録官の仕事を直接確認したいそうだ」
ルシルは足を止めた。
書記長室。臙脂色の蝋印。特注の羊皮紙。
十五年前の判決記録と、同じ質感を持つ紙。
(……会う機会が、来ましたわ)
感情は動かさなかった。確信のないことは、口にしない。記録のないことは、判断しない。しかし――点として、頭の中に留めた。
「……行きます」
「お前にしては珍しく、即答だな」
「……報告は記録官の仕事」
エリオットはそれ以上聞かなかった。
***
異端審問局の本棟、最上階。
書記長室の扉は、他の執務室より一回り大きかった。装飾はない。しかし木材の質が、廊下の他の扉とは明らかに違う。
エリオットがノックした。
「どうぞ」
穏やかな声がした。
扉を開けると、広い執務室があった。壁一面の書棚。整然と並んだ記録書。
窓から柔らかな午後の光が差し込んでいる。
その中央の執務机に、男が座っていた。
五十代半ば。白髪交じりの髪を丁寧に整え、温かみのある目をしていた。
口元には、人を安心させる種類の笑みが浮かんでいた。
暖炉の傍に置かれた小さな椅子、机の上の湯気の立つカップ。全体から漂う空気が――ひどく、穏やかだった。
「やあ、ルシル記録官。来てくれましたね」
クレマン書記長は、立ち上がって出迎えた。
「噂はかねがね聞いていますよ。棺の中の身元を五センチの誤差で見抜いたとか、密室の謎を針金一本で解いたとか。たいへん優秀な記録官だと、皆が言っている」
「……報告書を持参しました」
ルシルは書類を差し出した。
クレマンは受け取り、目を通しながら頷いた。
「素晴らしい。記録の精度が、まったく揺れていない」
それから、ふと顔を上げた。
「お父上のことは、存じていましたよ」
ルシルの手が、わずかに止まった。
「ヴィクトル先生は、優秀な侍医でした。患者の記録に対して、どこまでも誠実な方だった。あなたが記録の正確さにこだわるのは――お父上譲りなのでしょうね」
温かい目だった。作り物ではない、本物の温かさに見えた。
(……)
ルシルはクレマンを見た。穏やかな笑顔。整然とした執務室。父を知っているという言葉。
測れなかった。
この人間が、書き換えを指示した人間と同一かどうか。臙脂色の蝋印との繋がりが、確信にならない。
「……父の話は、関係ありません」
「そうですね、失礼しました」
クレマンは微笑んだまま、報告書を棚に仕舞った。
その棚の端に――臙脂色の蝋印を持つ封筒が、数枚重なっているのが見えた。
一瞬だけ。
ルシルは視線を動かさなかった。動かさないまま、その色を、頭の中に刻んだ。
(……同じ、蝋印)
「また難しい事件があれば、遠慮なく相談してください。あなたの仕事は、局にとって大切なものですから」
クレマンが言った。穏やかに、温かく。
ルシルは一礼し、執務室を出た。
***
廊下に出た瞬間、エリオットが小声で聞いた。
「どうだった」
「……穏やかな人」
「そうだな。局では評判がいい」
「……そうですか」
ルシルはそれだけ答え、歩き始めた。
廊下を三歩歩いたところで、足を止めた。
振り返った。書記長室の扉を見た。
(……机の引き出しに、特注の羊皮紙があるかどうか確認したかったですわ)
「……戻る」
「なぜ」
「……忘れ物」
「何を忘れた」
「……」
「ルシル」
エリオットの声が、一段低くなった。
ルシルはしばらく扉を見つめた。それから、前を向いた。
「……なんでもない。戻らない」
確信がない。記録がない。今ここで動くのは早い。
エリオットは何も言わなかった。ただ、隣を歩いた。
階段を下りながら、ルシルは修道服の内側の封筒に触れた。
毎月届く、臙脂色の蝋印。
(……送っているのは、あの人ですわね)
なぜ送るのか。なぜルシルに仕事を続けさせるのか。
点が、また一つ増えた。まだ線にならない。しかし――。
(……いつか必ず、測り直します)
***
記録室に戻ると、机の上に黒パンが置いてあった。
ルシルは椅子に座り、黒パンを手に取った。
一口かじった。固い。顎が痛い。
しばらくして、扉がノックされた。
「入ってるか」
エリオットだった。手に、温かそうな包みを持っていた。
「食堂で芋が余ったそうだ」
机の上に置いた。ルシルは黒パンを持ったまま、包みを見た。
「……黒パンがある」
「両方食え」
「……書記長室の机の引き出しを、測りたかった」
唐突に言った。自分でも、なぜ今言ったのかわからなかった。
エリオットは少しの間、ルシルを見た。それから椅子を引いて、向かいに座った。
「……引き出しの中に、何があると思った」
「……特注の羊皮紙。書き換えに使われたものと、同じ質感のものが入っているかどうか確認したかった」
「確信はあるのか」
「……ない」
「なら、今日は正しかった」
エリオットが言った。それだけだった。
ルシルは芋の包みを開けた。湯気が立った。一口食べた。
(……クレマン書記長は、お父様を知っていると言いましたわ)
信じることと、確信することは、別のことだ。お母様が言っていた。
(……でも、あの虯脂色は、本物)
黒パンを置いて、芋を食べた。今日は芋の方が先だった。
エリオットが自分の黒パンをちぎりながら、何も言わずに向かいに座っていた。
記録室には羊皮紙の匂いと、ランプの油が燃える微かな音だけが満ちていた。
ルシルはランプの光の中で、クレマンの穏やかな笑顔を思い出した。
(……測れない人)
それが今は――一番、怖かった。




