第7話 兄の記録と、見えない足跡(前編)
異端審問局の書庫は、地下二階にある。
記録室より深く、窓もない。ランプを持たずに入れば五分で方向を失う。
ルシルはそこが好きだった。迷いようがない。棚の配置を一度覚えれば、あとは体が覚える。人間と違って、棚は動かない。
今朝、その書庫で人が死んでいた。
「転落事故だ」と上から伝言が来た。
「記録書の補充作業中に、棚の上段から足を踏み外した」。
公式記録は事故死で処理する予定だという。
ルシルはその伝言を受け取り、修道服のポケットからメジャーを取り出した。
「……行く」
「わかってた」とエリオットが答えた。
***
書庫の入口には、二人の人間が待っていた。
一人は、目の赤い若い少女。転落したマルクの妹だという。
もう一人は、年配の女性書記だった。七十近い、小柄な老女。同じく発見者らしく、腕を組んで壁にもたれている。
ルシルはまず老女に近づいた。
「……お話を聞きたいのです。その前に一つ、採寸をさせてください」
老女が眉を上げた。「採寸?」
「書庫の転落事故の調査です。発見時の状況を正確に記録するため、目撃者の身長と腕の長さを計測する必要がありますの」
「なんでそんな――」
「棚の高さから遺体の落下角度を逆算するために、現場にいた人間のサイズが必要です。標準的な手順です」
ルシルはメジャーを取り出し、老女の肩に当てようとした。
「い、いやあああ!」
老女が叫んだ。ルシルの手を払い、驚くべき速度で廊下を走り始めた。
七十近い老女が、小走りではなく、完全な駆け足で。
エリオットが走った。老女の方が速かった。
「待ってください!」
「いやじゃいやじゃ!!」
廊下の角を曲がり、老女の姿が消えた。
しばらくして、エリオットが戻ってきた。息が少し乱れていた。
「……見失った」
「……なるほど」
ルシルは老女が消えた廊下の角を静かに見つめた。
「健康な骨格の証拠。七十近くであの走力は、膝関節の摩耗が最小限と推測できます」
「それだけか」
「……採寸できなかったことは、残念」
エリオットが深く息を吐いた。
***
マルクの妹、メレが語った内容は短かった。
兄のマルクは三年前から書記見習いとして働いている。高所作業を得意とし、最上段への補充も一人でこなしてきた。
昨日の夕方、上司の書記係長から指示があった。
「明朝、第十四区画の最上段に記録書を補充するように」と。
「足を踏み外すような兄じゃないんです」とメレは言った。
「子供の頃、木の一番上まで登って私を驚かせた人なんです。高いところで足がすくんだことなんて、一度もなくて……」
ルシルはメレを一秒だけ見た。
「……確認しますね」
それだけ言って、書庫の中へ入った。
***
遺体は、書庫の奥の棚の間に倒れていた。
仰向けだ。三十がらみの男性。棚の最上段から転落したとすれば、高さは三メートル近くある。
チャキ、チャキ。
まず傷の位置を確認する。右肩と後頭部に集中。左半身への衝撃がほぼない。
(まっすぐ落下していない)
落下前に、すでに体が傾いていた。後頭部を子細に確認する。
転落による衝撃痕に混じって――形の違う打撲痕が、一つある。
(これは、落ちる前の傷)
意識を失ったまま落下した。だから体勢が崩れた。
ルシルは打撲痕の直径と深さを計測し、ドレスの袖に数字を書き込んだ。
「……これで打たれましたわ」
立ち上がり、棚の端にある補修用の木槌を指した。書庫の備品だ。
「書庫の備品なので、持ち込んだ形跡が残りません」
「犯人は書庫に慣れた人間か」とエリオットが低く言った。
「そして、マルクさんが今朝ここへ来ることを知っていた人間」
ルシルは最上段の空きを見上げた。補充するよう指示された場所だ。
(……空きが、不自然)
最初から記録書が置かれていた痕跡がない。埃の積もり方が、棚の他の場所と違う。
(最初から空いていた棚に、補充するよう指示されたということですわ)
補充作業は口実だった。マルクをここへ呼び出すための。
「エリオット、マルクさんへ補充作業を指示したのは誰ですか」
「書記係長だ。昨日の夕方に指示があったらしい」
「……その書記係長を、午後に呼んでください」
「了解」
ルシルは視線を最上段の空きの隣へ移した。
並んでいる記録書の年代表示を確認する。十一年前から、十年前。
自分が古い記録棚で矛盾を見つけ始めた、あの時期と重なる。
分類の表示を確認する。
『騎士団記録・処分事案・第三班』。
(騎士団の処分事案が、この区画にありますわ)
ルシルは一冊だけ引き出し、背表紙を確認した。それから棚に戻した。
(消えた記録書が、ここにあったとしたら――マルクさんはそれを見てしまった、あるいは探していた)
まだ確信が持てない。
そのとき、背後のエリオットの気配が止まった。
振り返ると、エリオットが棚の表示を見ていた。
『騎士団記録・処分事案・第三班』。
表情が、少し変わっていた。
ルシルには名前のつけられない顔だった。呆れでも、注意でも、怒りでもない。測ったことのない顔だった。
「……エリオット?」
「なんでもない」
エリオットはすぐに視線を外した。
「一度外に出よう。午後に書記係長が戻ってくる」
ルシルはしばらく、エリオットの横顔を見た。
(……測れないですわ。今の顔)
何かがあった。でも確信が持てない。
「……わかった」
書庫を出る前に、もう一度だけ最上段の空きを見上げた。
マルクは何を探していたのか。答えは、まだなかった。




