第7話 兄の記録と、見えない足跡(後編)
書庫の外の廊下に、小さな椅子が二つあった。
ルシルはそこに腰を下ろし、記録書を膝に広げた。
書記係長が来るまで、しばらくある。エリオットは壁にもたれて立っていた。
沈黙が続いた。地下二階は静かだ。ランプの油が燃える音だけが聞こえた。
「……エリオット」
ルシルは記録書から目を離さずに言った。
「さっき、棚の表示を見ていましたわね」
エリオットが少しだけ間を置いた。
「見ていた」
「……騎士団の処分事案、ですわ」
答えない。ルシルは膝の記録書を閉じた。ようやくエリオットの方を見た。
エリオットは壁を見ていた。こちらを見ていなかった。
「……兄がいる」
静かな声だった。
「十一年前に、騎士団を追放された。機密文書を横流ししたという名目で」
「……」
「兄は否定した。でも証拠書類があると言われた。俺には見せてもらえなかった。追放後、しばらくして消息が途絶えた」
ルシルは何も言わなかった。
エリオットが壁から視線を外し、天井を見上げた。
「俺がこの局に入ったのは、その記録書を探すためだ。公式に認められた証拠書類が、本当に存在するのかどうか確認したかった」
「……見つかりましたか」
「見つからなかった。十一年分、暇を見て探した。あるはずの記録書が、ない」
チャキ。
ルシルは無意識に、メジャーを指に巻き付けていた。止めた。
(……十一年前の処分事案。書記長室の羊皮紙。記録書の改ざんのパターン)
照合したい。今すぐ。でも――。
(確信が持てないうちに、口にすることはできませんわ)
エリオットに根拠のない希望を持たせることも、絶望を与えることも、ルシルの流儀に反する。
「……そうですか」
それだけ言った。
エリオットが少しだけ、こちらを見た。何かを言おうとして、やめた。
廊下の奥から、足音がした。
***
書記係長は、五十がらみの細い男だった。
椅子に座らせると、最初から手が微かに震えていた。
ルシルはその手を一瞥した。右の人差し指と中指にペンだこ。
(書庫の記録書の管理に慣れた手ですわ)
「マルクさんへの補充作業の指示について、お聞きしたいです」
「は、はい。昨日の夕方に、上から指示がありまして――第十四区画の最上段が空いているから補充するよう、と」
「上から、というのは」
「……記録管理の上席からです」
「文書で来ましたか」
男が一瞬だけ固まった。
「……口頭で」
ルシルはガラスペンを出し、ドレスの袖に書き込んだ。
「第十四区画の最上段は、最初から空いていましたわ。補充作業という名目でマルクさんを呼び込んだということですわね」
男が黙った。
「マルクさんが死んだのは、事故ではありません。後頭部に転落前の打撲痕がある。彼は意識を失った状態で落とされましたの」
「…………」
「マルクさんは何を知っていましたか」
男の顔が、崩れた。
マルクは一ヶ月前、第十四区画の奥へ挟み込まれていた一枚の羊皮紙を見つけた。
内容を確認し、書記係長に話した。係長は上席に報告した。三日後、「整理する」と言われた。
「整理するの意味が、まさかこんなことだとは……!」
「その羊皮紙の内容を話せ」とエリオットが低く言った。
騎士団処分事案の証拠書類を「作成」するよう指示した文書だった。
差出人の署名はなかった。末尾に、印判が一つ。
「どこの印判でしたか」
男は唇を震わせ、小さく言った。
「……書記長室でした」
廊下に、沈黙が落ちた。
ルシルはエリオットを見た。
エリオットは男を見ていた。視線が動いていなかった。
ゆっくりと息を吐いた。音のない、長い息だった。
右手が、膝の上で一度だけ握られた。それだけだった。
(……エリオットの兄の記録が、書記長室によって作られたとすれば――)
確信が、あと一歩まで来ていた。
ルシルはガラスペンを仕舞い、立ち上がった。
「……エリオット、この方の証言を正式に記録として取ってください」
間があった。今日一番長い間だった。
「ああ」
声は、いつもと同じだった。それだけに、少しだけ違って聞こえた。
***
書庫の仕事が片付いたのは、夕暮れ前だった。
ルシルはエリオットの隣を歩きながら、ずっと黙っていた。
記録室に戻る前に、ルシルは足を止めた。
「……エリオット」
「何だ」
「……どうして私の護衛になりましたの」
エリオットが少し間を置いた。
「異端審問局の記録官の護衛は、局長の配属命令で決まる。俺もそれに従っただけだ」
「……局長が決めましたか」
「最終的にはな。ただ――」
エリオットが、わずかに声のトーンを変えた。
「当初の推薦は、書記長からだったと聞いた」
廊下が、静かになった。
チャキ、と冷たい音が鳴った。
(……書記長が、エリオットを私の護衛に推薦した)
エリオットを記録に近い場所に置けるよう。あるいは――ルシルが真実に近づいたとき、隣に書記長の目を置けるよう。
(わかりませんわ。まだ)
「……そうですか」
それだけ言って、ルシルは歩き出した。
エリオットが隣に並んだ。
「何か思ったことはないのか」
「……まだ確信が持てませんから」
「お前が確信を持つとき、俺に話してくれるか」
ルシルは前を向いたまま答えた。
「……そのときは話しますわ」
***
夜、記録室に戻ったルシルは、棚の奥から三枚の羊皮紙を取り出した。
書記長室の特注羊皮紙。十五年前の判決記録。今日の書記係長の証言記録。
そして――古い検死記録の束の中から、一つ引き出した。
十一年前。騎士団処分事案と同じ年。
インクの色が、わずかに違う。
(同じ癖ですわ。同じ手が、書き換えた)
ルシルは四枚の羊皮紙を並べ、ランプの光にかざした。
指示書そのものは、今日中に回収されただろう。
ルシルはドレスの裾に、小さく書き込んだ。
――まだ足りない。
ランプを吹き消そうとして、机の上に気づいた。
黒パンが、置いてあった。
(……いつの間に)
ルシルは椅子に座り、パンを手に取った。
書記長はまだ、ルシルを「記録を正確に残すだけの娘」だと思っている。
測る対象ではなく、測られる側だと。
(それは――測りやすい距離ですわ)
一口かじった。固い。顎が痛い。
暗い記録室で、ランプも持たずに座っていた。
地下二階より、もう少し深いところに今自分がいる気がした。
でも迷っていなかった。棚の配置を一度覚えれば、体が覚える。
人間も、同じはず。
最後まで食べた。




