第8話 白いカーテンと、測れない温度(前編)
朝の記録室に、封筒が届いた。
いつもの封筒ではなかった。表に、施設の名前が書いてある。
ルシルはそれを受け取り、一秒だけ見つめた。
開いた。
数行だけの文章だった。
エレーヌ様の体調が、昨夜から優れない。できれば早めにお越しいただけると、施設の者より。
ルシルは封筒を机に置いた。
置いた、はずだった。
気づいたら立ち上がっていた。
修道服を羽織りながら廊下に出ると、エリオットが向かいから歩いてきた。
黒パンを持っていた。今日の分だ。
「……どこへ」
「施設」
エリオットはルシルの顔を一秒見た。黒パンを懐に仕舞った。
「行こう」
それだけだった。
***
王都の朝は、石畳が冷たい。
ルシルはエリオットの隣を歩きながら、封筒の文章を頭の中で繰り返していた。
体調が優れない。昨夜から。
どの程度を「優れない」と表現したのか。
施設の者の観察眼がどれほどのものか、ルシルには判断できなかった。
(……測れない。行って、確かめるしかない)
「ルシル」
エリオットの声がした。
「そっちは市場だ」
ルシルは足を止めた。
振り返ると、エリオットが十歩後ろに立っていた。
「……知ってる」
「嘘をつくな」
「……今日は二回で済んだ」
「まだ一回目だ」
ルシルは黙って修正された方向へ歩き始めた。
「……成長した」
「何が」
「……自分から迷っていると気づいた。以前は気づかずに五分歩いておりました」
エリオットが何か言いかけて、やめた。
やめてから、小さく笑った気配がした。
(……聞こえましたわ)
それは口にしなかった。
***
施設の廊下は、いつも通り静かだった。
受付で名前を告げ、母の部屋へ向かおうとしたところで、廊下の角から小さな人影が飛び出してきた。
正確には、飛び出してきてルシルに激撃した。
「……っ」
ルシルは壁に手をついてなんとか踏みとどまった。
激突してきた人影は、床に座り込んでいた。
十歳ほどの少女だ。栗色の髪、丸い目。
施設の見習い修道女の格好をしている。
ルシルは無言で身をかがめ、少女の頭にそっと手を伸ばした。
乱れた栗色の髪を、不器用に数回だけ撫でる。
怪我がないか、無意識に確かめるような手つきだった。
少女は驚いたようにルシルを見上げ、それからルシルの修道服を見た。
インクだらけの袖。胸元の数式の走り書き。
裾まで続く計測値の羅列。
目が、大きく開いた。
「……あの」
少女が立ち上がりながら言った。
「ぶつかってしまって、申し訳ございません。お怪我はありませんか」
「……私はありませんわ。あなたは?」
「よかったです。私も平気です」
少女はルシルの袖を、じっと見ていた。
失礼とわかっていても目が離せない、という顔だった。
「……どうしましたか?」
「あの……そのドレスの数字は、なんですか」
「……計測値」
「なんの計測値ですか」
「……死体の」
少女が固まった。三秒、動かなかった。
それから、目が輝いた。
「すごいです!」
怖がるより先に、興味が勝っていた。
ルシルは少しだけ、その顔を見た。
「……アンヌ」
廊下の奥から、年配の修道女が呼んだ。
「お薬の時間ですよ」
少女――アンヌが「はい、今行きます」と答え、ルシルを見た。
「エレーヌ様のお嬢様ですか」
「……そう」
「エレーヌ様、今朝は少し顔色がよくなられました。昨夜より、ずっと」
それだけ言って、アンヌは廊下を走っていった。
ルシルはその背中を、少しだけ見送った。
(……顔色がよくなった)
封筒の文章より、その一言の方が、正確な情報だと思った。
***
母の部屋へ向かう途中、廊下で人とすれ違った。
四十がらみの男性だった。
仕立ての良い上着、手入れされた髭。
貴族の出だとひと目でわかる立ち居振る舞い。
脇に革張りの往診鞄を持っている。医師だ。
男はルシルを見た。
一秒、何かを思い出すような顔をした。
「……もしかして、ヴィクトル卿のお嬢さんかな」
ルシルは足を止めた。
「ドナシアンだよ。昔、君のお父上とは何度か学会でご一緒したことがあってね」
男は穏やかに微笑んだ。
「今はここで何人か患者を診ているんだ。君は確か……異端審問局で記録の仕事をしているんだって? ずいぶんと、変わった場所に落ち着いたものだね」
変わった場所。
その言葉の重さを、男はわかっていなかった。あるいはわかっていて言っていた。
どちらかは、まだ測れなかった。
ルシルはドナシアンを一秒見た。
それから視線を、男の鞄に落とした。
「……廊下の端の部屋の患者、処方を見直した方がいいですわ」
「え?」
「さっきすれ違いましたの。歩行速度が先月より落ちている。投薬量が合っていない可能性がありますわ」
ドナシアンの顔が、わずかに強張った。
「……君は医師でもないのに、随分と踏み込んだことを言うんだね」
「……父が侍医でしたので」
それだけ言って、ルシルは歩き出した。
背後でドナシアンが何か言いかけた気配がした。
その前に、エリオットが静かに扉を開けた。
***
母は、窓際のベッドに身を起こしていた。
白いカーテンが、朝の光を柔らかく透かしている。
顔色は――昨夜より、確かによかった。
アンヌの言った通りだった。
「ルシル」
名前を呼ばれた瞬間、ルシルの中で何かがほどけた。
いつも、そうだった。
「……お母様」
ベッドの傍の椅子に腰を下ろした。
母の手を、両手で包む。
細い。いつも細い。
それでも、今日は力があった。
「心配させてしまったわね」とお母様が言った。
「昨夜少し熱が出ただけなのに、施設の方が大袈裟に連絡してしまったみたいで」
「……大袈裟ではありませんわ。正確な情報は、早いほどいいですの」
お母様が笑った。
「あなたはいつもそうね。感情より先に、正確さが出てくる」
「……そうですか」
「でも、ちゃんと来てくれたでしょう。それが嬉しいのよ」
ルシルは答えなかった。答える言葉が見つからなかった。
そこへ、扉が開いた。
アンヌだった。
木盆に薬と水を載せて、丁寧な足取りで入ってくる。
ルシルを見て少し目を輝かせたが、それをすぐに抑えて、母の傍に歩み寄った。
「エレーヌ様、お薬のお時間です」
「ありがとう、アンヌ」
アンヌが薬を手渡しながら、ちらりとルシルを見た。
ルシルはアンヌの手元の薬の量を、無言で確認していた。
「……正確ですわ」
アンヌが少し胸を張った。
「エレーヌ様のお薬は、わたしが毎回量っております」
「……誰に教わりましたか」
「誰にも。自分で記録書を読みました」
ルシルはアンヌを、少しだけ見た。
(……記録書を、自分で)
十歳で、自分から記録書を読む子供。
測ったことのない種類の人間だった。
母が薬を飲み、水を置いた。
アンヌが盆を下げようとした、その瞬間だった。
「アンヌ」
ルシルが呼んだ。
アンヌが振り返る。
「……よく、気がつく子ですわ」
褒め方が、不器用だった。自分でもわかった。
でも他の言い方が、出てこなかった。
アンヌは一秒だけ固まった。
それから、ぱっと笑った。
屈託のない、十歳の笑顔だった。
「ありがとうございます、ルシル様!」
お母様が、嬉しそうに目を細めた。




