第31話 「三つの嘘」後編
ルシルは、閂を調べた。
壊れた受け金。木のささくれ。
メジャーを当てた。
「……この受け金は、外から壊されました。マリーさんが体当たりした、そのときに」
「……ええ。私が壊しました」
マリーが答えた。
「……でも、その前に、閂は本当に、かかっていたのでしょうか」
ルシルは、閂の軸を指した。
「……この閂は、横にずらしてかけます。内側からしか動かせない。普通は」
ルシルは、扉の上を示した。
「……でも、この扉には、上に隙間があります。建て付けが悪い。古い宿です。測ると、一センチ半」
ルシルは、細い糸のような跡を、扉の上端に見つけた。
「……ここに糸を通して、閂に結びつける。扉を閉めて、外から糸を引けば、閂は横にずれてかかります。引いた後、糸を抜き取る」
食堂がしんとした。
「……外から密室は作れます。糸一本で」
ルシルは、閂に残った、ごく浅い擦り跡を示した。
「……閂の、この溝。糸がこすれた跡です。幅、一ミリ以下。体当たりの衝撃ではつきません」
ルシルは顔を上げた。
「……密室はトリックでした。誰でも外から作れた。問題は、誰が作ったか、です」
*
「……握っていたものを、抜き取った人間」
ルシルは続けた。
「……密室が糸で作れるなら、抜き取るのも簡単です。殺して、握っていたものを抜き取って、糸で閂をかけて、出る」
ルシルは、床の水滴の跡を示した。
「……三つ目の手がかり。床の水滴」
ルシルはメジャーを当てた。
「……間隔、三十センチ。点々と扉へ続く。最初、わたくしは足跡かと思いました。でも、狭すぎる。人の歩幅ではない」
ルシルは、水滴の形を見た。
「……これは足跡ではありません。濡れた布から滴った跡です。雨に濡れた布を抱えて運んだ。屈んで運んだから、間隔が狭い」
「……濡れた、布?」
バルトが呟いた。
「……外に、何かを捨てに行った人がいます。雨の中。握っていたものを布に包んで。井戸か、川か。それを運んだ布が濡れて、戻るとき、床に滴った」
ルシルは一同を見回した。
「……雨の中、外に出られた人。二階に、自由に出入りできた人。そして、金貸しの声を、すぐ近くで何度も聞いて真似られた人」
ルシルの目が、ゆっくりと止まった。
マリーの上で。
「……マリーさん。あなた、ですね」
*
マリーは動かなかった。
青い顔のまま。けれど、震えは止まっていた。
奇妙なほど、静かだった。
「……証拠は」
マリーが小さく言った。
「……ありますわ」
ルシルはマリーに近づいた。
「……あなたの靴。裾。乾きかけていますが、泥が跳ねています。宿の中ではつかない泥です。外の、雨のぬかるみのもの」
ルシルは、メジャーをマリーの袖口に当てた。
「……それから、袖。内側が湿っています。布を抱えた腕の内側だけ」
マリーは答えなかった。
「……握っていたものを、見せていただけますか」
マリーの手が、エプロンのポケットを押さえた。
無意識の動きだった。
「……捨てに行ったはずのものを、捨てきれなかった。そうでしょう。だって、それは」
ルシルは静かに言った。
「……あなたにとって、大切なものだったから」
マリーの目から、涙がこぼれた。
マリーはポケットからそれを出した。
古い布の切れ端だった。色褪せた刺繍があった。花の模様。
「……これは」
「……母の、形見です」
マリーの声が震えた。
「……あの金貸しが持っていました。十五年、母を苦しめて死なせた、あの男が。母の形見を、戦利品みたいに握りしめて死んでいた」
マリーは布を胸に抱いた。
「……許せなかった。気づいてしまったんです。この宿に来て。あの男が、酔って喋った。自分が昔、どれだけの女を破滅させたか。その中に、母の名前がありました」
食堂は静まり返っていた。
「……だから、殺しました。給仕のふりをして。毒を盛って。声を真似て。密室を作って」
マリーはルシルを見た。
「……でも、後悔はしていません」
*
ルシルはマリーを見ていた。
そして、もう一度、メジャーを握った。
(……まだ、一つ、測っていないものが、あります)
ルシルはマリーの顔を見た。
それから、暖炉の近くの老人を見た。
二人を交互に見た。
「……マリーさん。一つ、伺います」
「……何ですか」
「……お母様の、お名前は」
マリーが戸惑った。
「……なぜ、それを」
「……教えてください」
「……エレナ、です。エレナ・ヴァロワ」
その瞬間。
暖炉の近くで、老人が立ち上がった。
椅子が倒れた。
老人の顔が白くなっていた。
「……エレナ」
老人の声が掠れた。
「……エレナの、娘」
ルシルは老人を見た。
「……やはり」
「……何が、やはりだ」
エリオットが聞いた。
ルシルは、マリーと老人を並べて見た。
「……お二人の顔。耳の形が同じです。耳たぶの付き方。それから、眉の骨の高さ。目と目の間隔」
ルシルはメジャーを二人の間にかざした。
「……血の繋がった者だけが持つ、骨格の相似です。他人の空似では、ここまで揃いません」
マリーが老人を見た。
「……あなたが……どうして……」
老人は震える声で言った。
「……わたしは、お前の祖父だ。エレナの父だ。十年、あの金貸しを探していた。娘を死なせた、あの男を」
老人の目から、涙が流れた。
「……この宿でお前を見たとき……エレナにあまりに似ていて……すぐわかった。わたしの孫だと」
老人はマリーに一歩、近づいた。
「……だから、わたしは決めた。お前がもし、あの男を殺したのなら……その罪はわたしが被ろうと。わたしが殺意を口にしたのは、そのためだ。お前を庇うために」
マリーは立ち尽くしていた。
言葉が出ないようだった。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……母は……いつも言っていました。『お父さんは、優しい人だった』と」
老人の肩が震えた。
「……一度だけ会いたいと……でも、もう叶わないと……」
マリーの頬を、涙が伝った。
「……こんな形で……人を殺した手で……あなたに会うなんて」
老人は首を横に振った。
「……いい。それでもいい。会えた」
老人の皺だらけの手が、マリーの手に触れた。
マリーはその手を握り返した。
初めて、震えがほどけたように見えた。
ルシルは二人を見ていた。
(……殺意を、認めた老人は)
(……孫を、庇おうとしていた)
(……一番、疑わしく見せて、一番、誰かを、守ろうとしていた)
ルシルは静かに、メジャーを巻いた。
*
雨が止んだ。
窓の外が明るくなっていた。
役人が来た。マリーは連れて行かれた。老人も、一緒に、ついて行った。「孫の、そばにいる」と言って。
役人が、客たちの聴取を始めた。
ルシルは、ふと、医師のモレルを見た。
モレルは役人に何か聞かれていた。落ち着いた様子で答えている。けれど、その手は相変わらず、革の鞄を固く抱えていた。
(……あの人は、結局、鞄を、見せませんでした)
(……医師にしては、深すぎる、ペンだこ)
(……人を、診る手ではなく、字を、書く手)
ルシルは内心で、引っかかりを覚えた。
今回の事件に、モレルは関わっていない。それは、測れた。彼は、ただ居合わせただけの、客だった。
けれど。
(……あの鞄の中に、何が、あるのか)
(……「病死」と、すぐに、断定したのは、なぜか)
(……あの人は、死体より、書類を、見慣れている)
ルシルは、その違和感を手帳の隅に書き留めた。
【モレル。自称・医師。文書を扱う手。要・記憶】
今は追わない。けれど、いつかどこかで、また会う気がした。
*
ルシルは、宿の入口でマリーたちを見送った。
「……裁くのは、わたくしの仕事ではありません」
ルシルはエリオットに言った。
「……わたくしは、ただ測るだけ。何が起きたかを。誰が嘘をついたかを」
「……つらいか」
エリオットが聞いた。
ルシルは少し、間を置いた。
「……つらくないと言えば、嘘になります」
ルシルは、マリーが抱いていた母の形見を思い出した。
「……でも、測らなければ、嘘は嘘のまま残ります。マリーさんが母の形見を取り戻せたのも、測ったからです」
ルシルは空を見た。雨上がりの薄い光が差していた。
「……測ることでしか、救えないものもあります」
エリオットは何も言わなかった。
ただ、隣に立っていた。
*
馬車の支度ができた。
橋が直るには、まだ数日かかる。二人は、遠回りの道を行くことにした。
宿が出る前。
ルシルはふと、足を止めた。
遺体の運ばれた部屋。その机の上に、金貸しの持ち物がまとめられていた。
その中に、一通の封筒があった。
ルシルの指が止まった。
臙脂色の蝋印。
(……これは)
ルシルは封筒を手に取った。
蝋印の色。直径。縁のわずかな歪み。
何度も見てきた、あの色だった。
(……書記長室、特注)
(……なぜ、こんな、街道沿いの金貸しが、これを)
ルシルは封筒を見つめた。
(……この金貸しも、どこかで、あの家と、繋がっていた……?)
雨上がりの光が、臙脂色の蝋印を照らした。
ルシルは封筒を外套の内側にしまった。
答えはまだ出ていなかった。
けれど、一つの事件の終わりが、また、別の糸の始まりになっていた。




