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『異端審問官ルシルの検死記録 ~没落令嬢は真鍮のメジャーで死体の嘘を測る~』  作者: w.t.


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第31話  「三つの嘘」後編

ルシルは、閂を調べた。

壊れた受け金。木のささくれ。


メジャーを当てた。


「……この受け金は、外から壊されました。マリーさんが体当たりした、そのときに」

「……ええ。私が壊しました」


マリーが答えた。


「……でも、その前に、閂は本当に、かかっていたのでしょうか」


ルシルは、閂の軸を指した。


「……この閂は、横にずらしてかけます。内側からしか動かせない。普通は」


ルシルは、扉の上を示した。


「……でも、この扉には、上に隙間があります。建て付けが悪い。古い宿です。測ると、一センチ半」


ルシルは、細い糸のような跡を、扉の上端に見つけた。


「……ここに糸を通して、閂に結びつける。扉を閉めて、外から糸を引けば、閂は横にずれてかかります。引いた後、糸を抜き取る」


食堂がしんとした。


「……外から密室は作れます。糸一本で」


ルシルは、閂に残った、ごく浅い擦り跡を示した。


「……閂の、この溝。糸がこすれた跡です。幅、一ミリ以下。体当たりの衝撃ではつきません」


ルシルは顔を上げた。


「……密室はトリックでした。誰でも外から作れた。問題は、誰が作ったか、です」



「……握っていたものを、抜き取った人間」


ルシルは続けた。


「……密室が糸で作れるなら、抜き取るのも簡単です。殺して、握っていたものを抜き取って、糸で閂をかけて、出る」


ルシルは、床の水滴の跡を示した。


「……三つ目の手がかり。床の水滴」


ルシルはメジャーを当てた。


「……間隔、三十センチ。点々と扉へ続く。最初、わたくしは足跡かと思いました。でも、狭すぎる。人の歩幅ではない」


ルシルは、水滴の形を見た。


「……これは足跡ではありません。濡れた布から滴った跡です。雨に濡れた布を抱えて運んだ。屈んで運んだから、間隔が狭い」

「……濡れた、布?」


バルトが呟いた。


「……外に、何かを捨てに行った人がいます。雨の中。握っていたものを布に包んで。井戸か、川か。それを運んだ布が濡れて、戻るとき、床に滴った」


ルシルは一同を見回した。


「……雨の中、外に出られた人。二階に、自由に出入りできた人。そして、金貸しの声を、すぐ近くで何度も聞いて真似られた人」


ルシルの目が、ゆっくりと止まった。

マリーの上で。


「……マリーさん。あなた、ですね」



マリーは動かなかった。

青い顔のまま。けれど、震えは止まっていた。

奇妙なほど、静かだった。


「……証拠は」


マリーが小さく言った。


「……ありますわ」


ルシルはマリーに近づいた。


「……あなたの靴。裾。乾きかけていますが、泥が跳ねています。宿の中ではつかない泥です。外の、雨のぬかるみのもの」


ルシルは、メジャーをマリーの袖口に当てた。


「……それから、袖。内側が湿っています。布を抱えた腕の内側だけ」


マリーは答えなかった。


「……握っていたものを、見せていただけますか」


マリーの手が、エプロンのポケットを押さえた。

無意識の動きだった。


「……捨てに行ったはずのものを、捨てきれなかった。そうでしょう。だって、それは」


ルシルは静かに言った。


「……あなたにとって、大切なものだったから」


マリーの目から、涙がこぼれた。

マリーはポケットからそれを出した。


古い布の切れ端だった。色褪せた刺繍があった。花の模様。


「……これは」

「……母の、形見です」


マリーの声が震えた。


「……あの金貸しが持っていました。十五年、母を苦しめて死なせた、あの男が。母の形見を、戦利品みたいに握りしめて死んでいた」


マリーは布を胸に抱いた。


「……許せなかった。気づいてしまったんです。この宿に来て。あの男が、酔って喋った。自分が昔、どれだけの女を破滅させたか。その中に、母の名前がありました」


食堂は静まり返っていた。


「……だから、殺しました。給仕のふりをして。毒を盛って。声を真似て。密室を作って」


マリーはルシルを見た。


「……でも、後悔はしていません」



ルシルはマリーを見ていた。

そして、もう一度、メジャーを握った。


(……まだ、一つ、測っていないものが、あります)


ルシルはマリーの顔を見た。

それから、暖炉の近くの老人を見た。

二人を交互に見た。


「……マリーさん。一つ、伺います」

「……何ですか」

「……お母様の、お名前は」


マリーが戸惑った。


「……なぜ、それを」

「……教えてください」

「……エレナ、です。エレナ・ヴァロワ」


その瞬間。

暖炉の近くで、老人が立ち上がった。

椅子が倒れた。


老人の顔が白くなっていた。


「……エレナ」


老人の声が掠れた。


「……エレナの、娘」


ルシルは老人を見た。


「……やはり」

「……何が、やはりだ」


エリオットが聞いた。

ルシルは、マリーと老人を並べて見た。


「……お二人の顔。耳の形が同じです。耳たぶの付き方。それから、眉の骨の高さ。目と目の間隔」


ルシルはメジャーを二人の間にかざした。


「……血の繋がった者だけが持つ、骨格の相似です。他人の空似では、ここまで揃いません」


マリーが老人を見た。


「……あなたが……どうして……」


老人は震える声で言った。


「……わたしは、お前の祖父だ。エレナの父だ。十年、あの金貸しを探していた。娘を死なせた、あの男を」


老人の目から、涙が流れた。


「……この宿でお前を見たとき……エレナにあまりに似ていて……すぐわかった。わたしの孫だと」


老人はマリーに一歩、近づいた。


「……だから、わたしは決めた。お前がもし、あの男を殺したのなら……その罪はわたしが被ろうと。わたしが殺意を口にしたのは、そのためだ。お前を庇うために」


マリーは立ち尽くしていた。

言葉が出ないようだった。

それから、ゆっくりと口を開いた。


「……母は……いつも言っていました。『お父さんは、優しい人だった』と」


老人の肩が震えた。


「……一度だけ会いたいと……でも、もう叶わないと……」


マリーの頬を、涙が伝った。


「……こんな形で……人を殺した手で……あなたに会うなんて」


老人は首を横に振った。


「……いい。それでもいい。会えた」


老人の皺だらけの手が、マリーの手に触れた。

マリーはその手を握り返した。


初めて、震えがほどけたように見えた。

ルシルは二人を見ていた。


(……殺意を、認めた老人は)

(……孫を、庇おうとしていた)

(……一番、疑わしく見せて、一番、誰かを、守ろうとしていた)


ルシルは静かに、メジャーを巻いた。



雨が止んだ。

窓の外が明るくなっていた。


役人が来た。マリーは連れて行かれた。老人も、一緒に、ついて行った。「孫の、そばにいる」と言って。


役人が、客たちの聴取を始めた。

ルシルは、ふと、医師のモレルを見た。


モレルは役人に何か聞かれていた。落ち着いた様子で答えている。けれど、その手は相変わらず、革の鞄を固く抱えていた。


(……あの人は、結局、鞄を、見せませんでした)

(……医師にしては、深すぎる、ペンだこ)

(……人を、診る手ではなく、字を、書く手)


ルシルは内心で、引っかかりを覚えた。

今回の事件に、モレルは関わっていない。それは、測れた。彼は、ただ居合わせただけの、客だった。


けれど。


(……あの鞄の中に、何が、あるのか)

(……「病死」と、すぐに、断定したのは、なぜか)

(……あの人は、死体より、書類を、見慣れている)


ルシルは、その違和感を手帳の隅に書き留めた。

【モレル。自称・医師。文書を扱う手。要・記憶】


今は追わない。けれど、いつかどこかで、また会う気がした。



ルシルは、宿の入口でマリーたちを見送った。


「……裁くのは、わたくしの仕事ではありません」


ルシルはエリオットに言った。


「……わたくしは、ただ測るだけ。何が起きたかを。誰が嘘をついたかを」

「……つらいか」


エリオットが聞いた。

ルシルは少し、間を置いた。


「……つらくないと言えば、嘘になります」


ルシルは、マリーが抱いていた母の形見を思い出した。


「……でも、測らなければ、嘘は嘘のまま残ります。マリーさんが母の形見を取り戻せたのも、測ったからです」


ルシルは空を見た。雨上がりの薄い光が差していた。


「……測ることでしか、救えないものもあります」


エリオットは何も言わなかった。

ただ、隣に立っていた。



馬車の支度ができた。

橋が直るには、まだ数日かかる。二人は、遠回りの道を行くことにした。


宿が出る前。

ルシルはふと、足を止めた。


遺体の運ばれた部屋。その机の上に、金貸しの持ち物がまとめられていた。

その中に、一通の封筒があった。


ルシルの指が止まった。

臙脂色の蝋印。


(……これは)


ルシルは封筒を手に取った。

蝋印の色。直径。縁のわずかな歪み。

何度も見てきた、あの色だった。


(……書記長室、特注)

(……なぜ、こんな、街道沿いの金貸しが、これを)


ルシルは封筒を見つめた。


(……この金貸しも、どこかで、あの家と、繋がっていた……?)


雨上がりの光が、臙脂色の蝋印を照らした。

ルシルは封筒を外套の内側にしまった。


答えはまだ出ていなかった。

けれど、一つの事件の終わりが、また、別の糸の始まりになっていた。

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